ネタのお言葉『ニセ科学への抑え効かず、嫌になるかな』

 この言葉は、あの「離騒」のニセ科学批判版である。
 【意訳】
 先日、私が愛読していたブログの管理人が、ニセ科学的な説に好意を示した。
 ブログの管理人:「よそで見かけた科学的に怪しい説に、無批判で飛びついて自ブログで紹介する行為も、また勇者といえる」
 「蛮勇ではない」

 他の常連の読者たちも、管理人の言い分を肯定した。
 「ほう、ニセ科学ですか、なんだか面白そうですね」
 「ニセ科学を支持するのも、ありっぽいですね」
 「損するような事態もないでしょうし、数多のニセ科学的な説を、どんどん思考に入れますね」

 もうだめだ。
 あのブログで、私のニセ科学批判を聞いてくれる人は居ない。
 ニセ科学の蔓延を一人で憂いても、あのブログの現状を変えることはできない。

 もはや科学リテラシーの向上を供に語ってくれる人が居ないからには、
 私は傍観のROMの立場に戻るしかない。
 【意訳、終わり】
 そのように屈原は述べたあと、ネット上から永遠に消え去った。

ネタのお言葉『変なdisの人』

 この言葉は、あのガエターノ・ブルネッティの作品である「変人」の、罵倒芸版である。
 【なりたち】
 遠い昔のこと。あのルイジ・ボッケリーニが、愛読していたブログにdisのコメントを連続で投稿した。
 そのコメント群を読んだブログ主は、感想を述べた。
 「ディ、ス! ディ、ス! これは、酷い!」

 ボッケリーニは反論した。
 「disの対話が見事になされたとき、disの単調さは失われます」

 それでもブログ主は不満を述べた。
 「ディ、ス! ディ、ス! 飽きもせず、この調子! まったく、愉快なdisだこと!」

 ボッケリーニは諭した。
 「ブログ主さま、拙速な判断を下す前に、今一度だけdisに対する理解を深めてください」

 ブログ主は納得せず、ボッケリーニをアクセス禁止にして追い出した。

 その騒動を後になって知ったブルネッティは、単調なdisを延々と繰り返すサイトを作って公開した。
 そのサイトのタイトルこそ、「変なdisの人」だった。(終わり)

ネタのお言葉『今のdisは、これよく常勝の養うをいう。後釣り宣言に至るまで皆、よく常勝を養うあり。相互理解を敬せずんば、なにをもってダメなニセ科学批判批判と別たん』

 この言葉は、あの論語の「今の孝は是(これ)能(よ)く養なうを謂(い)う。犬馬に至るまで皆能く養なうこと有り。敬せずんば何を以て別(わか)たん」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で行われている数多のdisり合いを眺めていると、
 次のような自己演出に熱心な論者たちの姿が、多いことに気がつきます。
 『常時、完全勝利を収めている自分』
 『少なくとも、あの手この手を使って無理やりイーブンで終わせるので、完全な負けに追い込まれることはない自分』

 これも一つの芸風と言われたらそれまでですが、このような態度ばかり採っていると、
 「あなた、なかなかの毒を吐きますね」
 「そういうあなたも、トゲトゲ感が尋常ではないですね」
 という和やかな雰囲気に至るためには、長い時間を必要とするでしょう。

 これを、ニセ科学問題の議論でよく見る光景にたとえるならば、
 まずは科学の有識者たちに向かって、なんじゃそらな主張をブイブイいわしてドヤ顔を決めるも、
 次第になんとなく自分の主張の不利を悟り、かといって素直に認める自分は居ないので、仕方なく、

 『この私は、科学の素人である』
 『ゆえに、エビデンスを軽視した発言を山ほど連発しても、すべて自動的に免責される』

 と言って開き直るタイプのニセ科学批判批判者を、優しく温和に諌めて態度を改めさせる作業と同じくらい、長い時間を必要とするでしょう。

 あなたが真の罵倒芸を探求している論者ならば、disの原稿と真摯に向かい、推敲を重ねて一見の読者にも分かりやすいdisに仕上げ、
 投稿ボタンを押すときも、「disらせていただきます」と挨拶し、襟を正して他所のdisり合いに参加することです。

 disり合いを行っている間は、『自分のdisを敬っています』と表明すると同時に、『皆さんのdisも敬っています』と表明しましょう。
 この態度をそれぞれの論者が維持することにより、まもなく相互理解に達して、いつもよりもdisり合いが早く終わり、
 その場の皆が一人残らず、「今日は新たな境地を見ました」と言って爽やかな気持ちで解散できるのです。

 自分の一人勝ちを狙う気持ちが強い間は、とくにこれを意識してdisのコメントを作ってください。
 【意訳、終わり
 このように孔子はアドバイスしていた。