ネタのお言葉『憂いあれば、すなわちdisが救われず』

 この言葉は、あの荘子の「憂いあれば則ち救われず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 どんなにベテランの罵倒芸論者であっても、悩み事がある状態では、的確なdisをネット上で公開することができません。
 そのようなときは、disを一旦やめて、悩み事を先に解決しましょう。

 「そんなわけにはいかない、私は今すぐにdisのコメントを発表したいのだ」という気持ちも分かりますが、
 悩み事がある状態で放つdisは、もやもやした内容になりがちであり、読者にとって理解しがたい文章になりますから、不親切です。

 無心の罵倒芸の域にまで達しなさいとまでは言いませんが、
 悩み事のない、晴れ晴れとした心で実行する罵倒芸は、多くの人を魅了して固く支持されることも事実です。
 
 自分の罵倒芸をネット上で末永く公開したいのであれば、悩み事のない心理状態を常に保つことが大切です。
 【意訳、おわり
 そのように荘子はアドバイスしている。

創作小話『空飛ぶスパゲッティ・モンスターに論戦を挑んだ者』

 その悪しき相対主義者であるAさんは、空飛ぶスパゲッティ・モンスターに遭遇したので、質問しました。
 「あなたは、科学の支持者ですか、それとも、ニセ科学の支持者ですか」

 Aさんは、空飛ぶスパゲッティ・モンスターが「科学の支持者だ」と答えたときは、ニセ科学を擁護し、
 空飛ぶスパゲッティ・モンスターが「ニセ科学の支持者だ」と答えたときは、科学を擁護し、
 「中立だ」という答えが返ってきたときは、
 「質問から逃げていますね、立場をはっきりさせなさい、それでもモンスターですか」
 と言ってあげようと考えていました。
 「こうすれば、どうやっても私の勝ちとなるのだ」

 ところが、空飛ぶスパゲッティ・モンスターは何も答えず、どこかへ行ってしまいました。
 Aさんは、感心しました。「なるほど、スルー芸か」
 「私の考えなど、とっくにお見通しというわけか。なかなか、洞察力の優れたスパゲッティだ」

 【教訓】これは、まともな科学とニセ科学をごっちゃにして語ってドヤ顔で締めくくるという態度を見せ続けていると、
 やがて誰にも話を聞いてもらえなくなるという例え話です。

創作小話『モヒカン的なブログを見つけて悩み続けた者』

 その科学素人であるAさんは、自ブログで科学に関する記事を書いて公開しましたが、心配になりました。
 「一応は推敲したけれど、まだ間違いが残っているかもしれないし、いったん記事を非公開にしたほうがいいかしら」

 その後、モヒカン的なブログを見つけたAさんは、悩みました。
 「あのモヒカンさんに来てもらって、私の記事をチェックしてもらおうかしら」
 「でも、苛烈に修正されて私は疲弊するかもしれないし、やはり来てもらわないほうがいいかしら」

 「あのモヒカンさんのブログを熟読すれば、私自身で記事をチェックできるようになるかしら」
 「でも、あのモヒカンさんのブログは科学の専門用語が多くて、読み進めるのが難しそうだし、」
 「いったい私は、どうすればよいのかしら」

 そうして悩んでいるうちに、別のモヒカン的論者が現れて散々に修正してきたので、Aさんは疲弊しました。

 【教訓】この話は、自分よりも科学リテラシーの高い人から情報を得るチャンスがあるときは、すぐに行動しないと後で悔やむ羽目になることを教えています。

反証可能性についてのメモ

 次の記事を読んだ。
 “、反証可能性はすでに反証された仮説には存在しない。 (少なくとも形式的には)反証可能性とは、対象の命題が偽であることを経験的に確かめるテストが存在し得る、というのを意味するのでは。「可能性」なのだし。 - ublftbo のコメント - はてなブックマーク

 なるほど、ublftboさんの言い分には説得力がある。
 形式的には、「対象の命題が偽であることを経験的に確かめるテストが存在し得る」のだから、
 現時点で「すでに反証された仮説」であっても、形式的には未来の時間のどこかで反証されてしまう可能性もゼロではないというわけだ。

 これで納得して終わりたいところだが、もしかするとsanshiroさんの該当ツイートには、私の及び知らない深い考えが隠されているのかもしれない。

 というわけで、ublftboさんのコメントについてsanshiroさんから詳細な反論が今後に展開されることを信じて待つしだいである。
 もちろん、スルー芸を発動されてしまう可能性もあるわけだが、それもまたよしである。
posted by TAKA at 12:50メモ

創作小話『世のすべてのニセ科学批判者たちに勝てる秘策の巻物』

 その主人公であるAさんは、「世のすべてのニセ科学批判者たちを相手にした議論で一人勝ちできる秘策」を思いつき、急いで巻物に記しました。
 「これは、とっても大事なものだから、誰にも知られないように家の裏山に埋めておこう」

 そのように考えたAさんは、巻物を裏山に埋めました。
 しかし、心配性のAさんは、それから毎日様子を見に行きました。
 「よしよし、今日もちゃんと埋まっているな」

 それを遠くから見ているBさんが居ました。
 家と裏山をひっきりなしに往復しているAさんの姿を不思議に思ったBさんは、ある日こっそりとついて行きました。
 そこでAさんの秘密を知ったBさんは、Aさんが居ないうちに埋めてあった巻物を掘り出して、失敬しました。
 Bさんの正体は、泥棒でした。

 Aさんは、大切な巻物が無くなっている状況を見て、大いに嘆きました。
 それを聞きつけたCさんは、同情してあげようと思いましたが、
 ことの次第をAさんから打ち明けられると、Cさんは冷静な声でアドバイスしました。
 「それならば、今度は『なんの生産性もないダメなニセ科学批判批判』を巻物に記し、それを裏山に埋めるとよい」
 「今まで埋めていた巻物も役に立てることはなかったのだから、同じことだ

 【教訓】これは、せっかく役に立つニセ科学批判批判を思いついても、実際に使用しなければ宝の持ち腐れになるだけというお話です。

ネタのお言葉『論敵のdisを知り、己のdisを知れば、百の論戦もあやうからず』

 この言葉は、あの孫子の「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 論敵のdisり方と自分のdisり方の詳細を把握しておけば、ネット上でdisり合いを百回繰り返しても負けることはありません。

 論敵のdisり方を把握せず、自分のdisり方のみを承知している場合、disり合いで負ける確率は50%となります。

 論敵のdisり方と自分のdisり方の両方を把握していない場合、disり合いを何度行っても負け続けてしまい、
 「貴重な時間と労力を使っていながら、私はいったい何をしているのだろうか……。こんなネット生活を送っていて、本当によいのだろうか?」という自己問答の状態になります。

 罵倒芸は成り行きで行えばよいというものではなく、事前の入念な情報収集や、論敵と自分の実力の比較検討が大切です。
 その分析の結果が自分に不利と出たならば、
 「そんなのありえない、ぼくが一番、disを上手く操れる、論者なんだ、ゆえにGO!!」
 というガンダムのアムロ風の気持ちを抑え、ネット上のdisり合いに参加しないという行動を選択しましょう。
 その選択が、やがては自分の長期的な勝利につながるのです。
 【意訳、おわり
 このようなことが孫子に書かれている。

にゃんこ宙返りさんの「ネトウヨ、ニセ科学批判の人たち、云々」というツイートから話を整理する

 次の記事を読んだ。
 ああ、「たとえば菊池誠」と答えるか。 - ublftbo のコメント - はてなブックマーク

 話の流れが今ひとつ分からなかったので、ちょっと整理する。
 まずは、にゃんこ宙返りさんが次のようなツイートを公開されていたので、読む。
http://twitter.com/qpqp5573kkz/status/899556271400992769

 ふむ、このツイートにおける「ニセ科学批判の人たち」に該当する人物は、「キクマコ先生」であり、
 具体的には阪大の菊池誠教授のことで間違いないようだ。
 しかしながら、にゃんこ宙返りさんは「ニセ科学批判の人たち」と言い表している。
 つまり、「菊池誠教授は一人ではない、複数人が存在する」という主張である。
 (さしずめ、あのNATROM団になぞらえると、kikumaco団といったところか)

 なるほど、いつのまにか菊池誠教授は自身のクローンを何体か作っていたらしい。
 さすがは、サイバーメディアセンターで生物物理学を教えているだけのことはある。
 ……と納得して終わりたいところだが、この考察が間違っている可能性も、ゼロではない。
 「菊池誠教授が、複数人も居る? それは、失笑する!」という反論があるかもしれない。

 というわけで、にゃんこ宙返りさんにおかれては、「ニセ科学批判の人たち」の詳細について説明してもらえると幸いである。

 もちろん、「私の個人的な観測範囲に居るニセ科学批判者たちの言動から、地球上に居るすべてのニセ科学批判者たちにつなげて断定したにすぎない」という答えでもよいし、
 あるいは次のような答えが返ってきても私は納得する。
 「具体的な名前を列挙することはできない」
 「なぜならば、キクマコ先生の一人から反論されることはともかく、他のニセ科学批判者たちからも一斉に反論される事態になる可能性があり、」
 「そうなると、この私がいちいち再反論しないといけない事態となる」
 「そのような事態は避けたいので、他のニセ科学批判者たちの名前は提示できないという結論になる」
 「細かいことを言わなくても、『キクマコ先生と、それ以外の謎の誰かさんたち』ということで良いではないか、うんうん」

 このような答えも、ありである。
 「常勝のニセ科学批判批判」あるいは、
 「少なくとも、完全な負けに追い込まれることのないニセ科学批判批判」を追い求めている論者の場合、
 言及した相手の全員から直接の反論が返ってこないようなニセ科学批判批判を唱えることは、まったく不自然ではない行為なのだ。

ネタのお言葉『私のdisは木人に似たり』

 この言葉は、あの荘子の「木鶏に似たり」の罵倒芸版である。
 【なりたち
 ある罵倒芸ブログの管理人であるAさんが、副管理人であるBさんに言いました。
 「いまから私は他所のdisり合いに参加しますが、Bさんも一緒に行きませんか」

 Bさんは、断りました。
 「だめです、今の私は、勢いだけで中身のないdisコメントしか仕上げることができませんので」

 数日後、Aさんは再び誘いました。
 「いまから他所のdisり合いに参加しますが、Bさんも行きませんか」

 Bさんは断りました。
 「だめです、今の私は、いきあたりばったりで落ち着きのないdisコメントしか仕上げることができませんので」

 数日後、Aさんが再びdisり合いに誘うと、Bさんは承知しました。
 「よいでしょう、今の私は、どんなに強い論敵がdisってきても、まったく動じません」
 「聴衆から見れば、まるで木彫りの人形と勘違いされてしまうくらいです」

 木彫りの人形のような罵倒芸論者は、「なんでもいいから、とにかくdisってあげたい!」
 という気持ちが起きず、静かに佇むことができます。
 この罵倒芸論者とdisり合いを行う人たちも、次第に平穏な気持ちとなって、和やかに話が進み、
 終わるころには、「今日は、いつもと違って有意義なことをたくさん学びました」と満足してROMに帰ります。

 木彫りの人形のような態度が、罵倒芸論者たちの理想です。
 【なりたち、おわり
 このように荘子は主張している。

ネタのお言葉『疲労はピークにして、すでに科学リテラシーの説くも無く』

 この言葉は、あの『贈劉景文』(りゅうけいぶんにおくる)のニセ科学批判版である。
 【意訳】
 私は長年にわたってニセ科学批判を行ってきたが、ニセ科学推進者どころか、普通の人たちにまで反発され続けてきた。

 いまは心に虚しさが広がるばかりであり、科学的思考の大切さをネット上で啓蒙する気力もなくなった。
 
 この無残な光景、どうか新人のニセ科学批判者である君の思考に留めておいてほしい。

 これからのニセ科学批判は、いままで以上の闘気を身につけるべき時代に成るのだから。
 【意訳、おわり】
 そのように蘇軾(そしょく)は劉景文にコメントを送っている。

ネタのお言葉『議論で負ける栄ありて、後釣り宣言で勝つの辱なし』

 この言葉は、あの呉子の「死の栄ありて生の辱なし」の罵倒芸版である。
 【意訳】
 ネット上の議論でdisを実行する際には、強気で攻めるだけではいけない。ときには、柔和な雰囲気も出す必要がある。

 「そんなことはない、とにかく威勢を見せつけねばならない」という意見もあろうが、しかし、それは罵倒芸のほんの一部にすぎない。

 勢いだけでdisる論者は、長期的視野というものがない。これでは、局所的に勝てたとしても、総合的には大敗して終わる。

 罵倒芸の論者が心得ることは、以下の5つである。
 その1:勢いがあるときこそ、一歩引いて議論の状況を見る。
 その2:議論の外にも、見えない論敵がたくさん居るつもりでdisる。
 その3:格上の論敵を相手にする時は、完全勝利をおさめて悠々とROMに戻るという甘い希望を、捨てる。
 その4:完全勝利して議論が終わったとしても、「まだ勝っていない」という初心の気持ちを保って、ROMに帰る。
 その5:よけいな飾りの言葉は排除し、簡潔でピンポイントなdisコメントを作る。

 ひとたび他所の議論にdisで臨むと決めたならば、聴衆にも知らせずそのまま罵倒芸で参加し、
 一人勝ちをおさめるまでは、個人的な悲しい事情を披露して同情を誘うようなまねをしないのが、disを使う論者の矜持である。
 (たとえば、「私は過去のdisり合いで連敗を重ねてきた、かわいそうな罵倒芸の論者です」などという自己アピールは、してはいけない)

 議論の流れが不利になってきた時には、潔く自分の主張を撤回することはあり得ても、
 「たしかに私はデタラメな主張をしていたかもしれない、しかし、これはある目的のための実験だったのだ」
 「この私は、意図的にデタラメを述べていたのだ、おかげで興味深いデータがとれた、帰る」
 などと後釣り宣言を行って自分のプライドを保とうとすることは、大幅な信用低下につながる態度と心得るべきだ。
 【意訳、おわり】
 このようなことが呉子に書かれている。