「ニセ科学批判=冷笑と受け取られる背景は、云々」という伊藤剛さんのツイートから話を整理する

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 はてなブックマーク - 伊藤 剛さんのツイート ニセ科学批判=冷笑と受け取られる背景には、やはり「と学会」のありようが大きくあるでしょう。 唐沢俊一をしっかり批判してこなかったツケは間違いなくあ
 (ublftboさんのコメントから引用)
 唐沢俊一氏というのは、原発事故にまつわる「福島差別やデマゴギー」に匹敵するインパクトを持つ論者ということ? 私は、ほとんど何をした人かすら知らないですが。

 なるほど、私にも話がよく見えてこなかったので、ちょっと整理する。

 ・「ニセ科学批判=冷笑と受け取られる背景には、『と学会』のありようが大きくある」という主張が、事実だとする。
 「唐沢俊一をしっかり批判してこなかったツケ」も、間違いなくあるとする。
 「反原発が福島差別やデマゴギーを批判すべきというのと同じ話」という主張も、事実だとする。

 ・ところが、ublftboさんには今ひとつピンと来なかった。
 
 ・つまり、「唐沢俊一氏をしっかりと批判することの重要性」を世のニセ科学批判者たちに対して説く活動が、今まで不足していたことになる。

 なるほど、こういうことらしい。
 この流れからすると、これから伊藤剛さんは世のニセ科学批判者たちに対して、
 「唐沢俊一氏をしっかりと批判することの重要性」を今以上に訴える活動を始めるのであろう。

 そのときになって、地球上に存在するすべてのニセ科学批判者たちが、
 「なんと、我々の気がつかないうちに、そんなことになっていたのですね、これは至りませんでした」
 「以後、あらためます」
 と一斉に反省の姿を見せるのだ。(と予言しておく。当たる確率は、けっこう高いと自負する)

創作小話『モヒカン的な論者たちとの議論で一人勝ちしたと述べる者』

 その村には、「科学的な議論ができない人」「有意義な議論が形成できない人」「詭弁を使ってでも議論に勝とうとする人」という評判のAさんが居ました。

 それを面白くないと思ったAさんは、「本当の自分はすごい論者なんだぞ」というアピールを、村の広場で実行しました。
 「昨日のできごとですが、私はモヒカン的な論者たちが住んでいる村に赴いて、片っ端から論破してあげました」
 「いやあ、そのときの私の勇壮な姿を見せてあげたかったですね」

 それを聞いた村の人たちは、感想を述べました。
 「ならば、そのときの議論がどんなものだったのか、今ここで内容を話せばよい」
 「そうすれば、我々はAさんの勇壮な姿を確認できる」

 Aさんは、「それなんですが、あのときの議論がどんなものだったか、すべて忘れてしまいました」と言って、急いで広場から去りました。

 【教訓】このように、自分の評判を良くしようとして有りもしない実力を声高に宣伝すると、かえって評判が悪くなるのです。

ネタのお言葉『disを学びて思わざれば、すなわち罵倒芸に罔し(くらし)。disを思いて学ばざれば、すなわち罵倒芸にあやうし』

 この言葉は、あの論語の「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」の罵倒芸版である。
 【意訳
 他人のdisり方を見るだけで満足し、自分で考えることを怠ると、空疎でぼんやりとした罵倒芸しか披露できず、使い物になりません。
 自分でdisり方を考えるだけで満足し、他人から学ぶことを怠ると、視野が狭くて器の小さい罵倒芸になる危険性があります。

 disり方の知識を淡々と頭に入れるだけでなく、そのdisり方の構造を細部までよく理解したうえで、自分の罵倒芸に組み入れる。
 この作業を終えたあとでネット上の議論に臨めば、迷うことなくdisの実力を存分に発揮できるのです。
 【意訳、終わり
 そのように孔子は言っている。