この言葉は、あの呉子の「死の栄ありて生の辱なし」の罵倒芸版である。
【意訳】
ネット上の議論でdisを実行する際には、強気で攻めるだけではいけない。ときには、柔和な雰囲気も出す必要がある。
「そんなことはない、とにかく威勢を見せつけねばならない」という意見もあろうが、しかし、それは罵倒芸のほんの一部にすぎない。
勢いだけでdisる論者は、長期的視野というものがない。これでは、局所的に勝てたとしても、総合的には大敗して終わる。
罵倒芸の論者が心得ることは、以下の5つである。
その1:勢いがあるときこそ、一歩引いて議論の状況を見る。
その2:議論の外にも、見えない論敵がたくさん居るつもりでdisる。
その3:格上の論敵を相手にする時は、完全勝利をおさめて悠々とROMに戻るという甘い希望を、捨てる。
その4:完全勝利して議論が終わったとしても、「まだ勝っていない」という初心の気持ちを保って、ROMに帰る。
その5:よけいな飾りの言葉は排除し、簡潔でピンポイントなdisコメントを作る。
ひとたび他所の議論にdisで臨むと決めたならば、聴衆にも知らせずそのまま罵倒芸で参加し、
一人勝ちをおさめるまでは、個人的な悲しい事情を披露して同情を誘うようなまねをしないのが、disを使う論者の矜持である。
(たとえば、「私は過去のdisり合いで連敗を重ねてきた、かわいそうな罵倒芸の論者です」などという自己アピールは、してはいけない)
議論の流れが不利になってきた時には、潔く自分の主張を撤回することはあり得ても、
「たしかに私はデタラメな主張をしていたかもしれない、しかし、これはある目的のための実験だったのだ」
「この私は、意図的にデタラメを述べていたのだ、おかげで興味深いデータがとれた、帰る」
などと後釣り宣言を行って自分のプライドを保とうとすることは、大幅な信用低下につながる態度と心得るべきだ。
【意訳、おわり】
このようなことが呉子に書かれている。