ネタのお言葉『私のdisは木人に似たり』

 この言葉は、あの荘子の「木鶏に似たり」の罵倒芸版である。
 【なりたち
 ある罵倒芸ブログの管理人であるAさんが、副管理人であるBさんに言いました。
 「いまから私は他所のdisり合いに参加しますが、Bさんも一緒に行きませんか」

 Bさんは、断りました。
 「だめです、今の私は、勢いだけで中身のないdisコメントしか仕上げることができませんので」

 数日後、Aさんは再び誘いました。
 「いまから他所のdisり合いに参加しますが、Bさんも行きませんか」

 Bさんは断りました。
 「だめです、今の私は、いきあたりばったりで落ち着きのないdisコメントしか仕上げることができませんので」

 数日後、Aさんが再びdisり合いに誘うと、Bさんは承知しました。
 「よいでしょう、今の私は、どんなに強い論敵がdisってきても、まったく動じません」
 「聴衆から見れば、まるで木彫りの人形と勘違いされてしまうくらいです」

 木彫りの人形のような罵倒芸論者は、「なんでもいいから、とにかくdisってあげたい!」
 という気持ちが起きず、静かに佇むことができます。
 この罵倒芸論者とdisり合いを行う人たちも、次第に平穏な気持ちとなって、和やかに話が進み、
 終わるころには、「今日は、いつもと違って有意義なことをたくさん学びました」と満足してROMに帰ります。

 木彫りの人形のような態度が、罵倒芸論者たちの理想です。
 【なりたち、おわり
 このように荘子は主張している。

ネタのお言葉『疲労はピークにして、すでに科学リテラシーの説くも無く』

 この言葉は、あの『贈劉景文』(りゅうけいぶんにおくる)のニセ科学批判版である。
 【意訳】
 私は長年にわたってニセ科学批判を行ってきたが、ニセ科学推進者どころか、普通の人たちにまで反発され続けてきた。

 いまは心に虚しさが広がるばかりであり、科学的思考の大切さをネット上で啓蒙する気力もなくなった。
 
 この無残な光景、どうか新人のニセ科学批判者である君の思考に留めておいてほしい。

 これからのニセ科学批判は、いままで以上の闘気を身につけるべき時代に成るのだから。
 【意訳、おわり】
 そのように蘇軾(そしょく)は劉景文にコメントを送っている。