ネタのお言葉『炎上芸の思考は、まこと燃え尽きたあとの灰であるべし』

 この言葉は、あの荘子の「心は固に死灰のごとくならしむべし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で気分の赴くまま根拠の薄い自説を公開し、読む人の神経を逆撫でするような言論も平気で公開し、世間が騒ぐ様子を見るのは面白いものです。
 しかしながら、たまにはそのようなネット生活を変えてみるのもよいでしょう。

 炎上芸に満たされた自分の思考に水をかけて冷やし、灰のような気持ちになりましょう。
 すると、読者からの非難や支持の言葉に一喜一憂していた今までの自分が、居なくなります。いかなるコメントをもらっても、
 「私の炎上芸は、灰になっているのだから、もう燃えることはない」という気持ちで応対することができます。

 完全な無の境地になれとまでは言いませんが、なにを言われても涼しい顔を見せている自分で居ることは、罵倒芸の論者としての寿命を延ばせることも事実です。
 そうでなければ、「もうだめだ、私の芸風は、ブームが過ぎ去ってしまい、閑古鳥が鳴くばかりだ」という状態となり、意気消沈したままネット上から永遠に消え去るという結末を迎えるのです。
 炎上芸を末長く披露したいのであれば、燃え尽きて冷たくなった灰の思考を持ちましょう。
 【意訳、おわり
 そのように荘子は説いている。

ネタのお言葉『真のdisは勝ちの飽くを求むるなく、立ち位置の安きを求むることなし』

 この言葉は、あの論語の「君子は食飽(しょくあ)くを求むること無く、居(きょ)安きを求むること無し」の罵倒芸版である。
 【意訳
 真の罵倒芸を目指している論者ならば、議論の目先の勝ちにこだわってはいけません。
 下界で地味に活動するのを嫌がって、深山の頂きに赴いて安楽椅子を設置して座り、遠くネットの地上をぼんやりと眺めながら、好き放題にいっちょ噛みするような態度も、あってはならないことです。

 真の罵倒芸を目指している論者として、日々自問しましょう。
 例:「科学的にダメな説を声高に主張している人をネット上で発見したが、いまの私に何ができるだろうか」
 このように、罵倒芸の乱発を慎み、ここぞという時にdisを突きつけましょう。

 自分よりもレベルの高い罵倒芸論者を発見したときは、「できるぞ、あのようなdisり方、私にも簡単にできる!」などと言わず、素直にエッセンスを学びましょう。
 これらを実際のネット上で実行できた論者こそ、「真の罵倒芸を追究している御方だ」と読者たちから評価されるのです。
 【意訳、おわり
 そのように孔子は説いている。

ネタのお言葉『一年が過ぎて、ニセ科学擁護者を説得した成功例、一つあり』

 この言葉は、あの『宴城東荘』(じょうとうのそうにえんす)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ニセ科学批判を始めてから、一年が過ぎようとしている。
 今年の私は、ネット上で千人のニセ科学擁護者と対話して、一人だけまともな科学の思考法を知ってもらうことに成功した。

 百歳になっても、ニセ科学批判の活動をネット上で続けている人は、いまだ居ない。

 現在の私は、有意義な議論が形成できたという満足感に浸れているが、さて、これをあと百回も味わえることが叶うだろうか。

 慣行農法で作られた新鮮かつ一個の野菜をジュースにして飲んで、数多のニセ科学を批判してまわって疲れた自分に活を入れようではないか。

 【意訳、おわり
 そのように崔敏童(さいびんどう)は城東の荘で記している。

「もしも自動車を運転中にエンストした経験を持つニセ科学批判者が、『Ζガンダム』のワンシーンを間違って思い出したら」と考えました

 シロッコ:「車……。動け、車! なぜ、動かん!? う、うおぉ~」

 カミーユ:「エンストした車は、高速道路の中から居なくなれ!」

 シロッコ:「私の車だけが、廃車になるわけがない。貴様の車も、一緒に連れていく……」

 カミーユ:「シロッコ……。車の再始動に、成功したのか?」

 カイーユ:「う、あ、JAFが、シロッコの車と、僕の車を牽引して、どこかへ持って行く!?」

 ファ:「カミーユ、迎えに来たわよ。私の車に乗って」

 カミーユ:「……あ? 黄色い星が、点いたり消えたりしている」

 カイーユ:「あははは、星が小さく遠のいていく」

 カミーユ:「あの光、ピカチュウの十万ボルトかなあ?」

 ファ:「あれは、JAFの車のハザードランプよ」

 カミーユ:「いや、違うな。ピカチュウの十万ボルトは、もっとビリビリビリ~って来るもんな」

 ファ:「カミーユ? 何を言っているの?」

 カミーユ:「暑いな、ファさんの車の中。出られないのかな?」

 ファ:「カミーユ、エアコンは効いているわよ」

 カミーユ:「おーい、出してくださいよ~。高速道路を自分の足で直接歩いて、外の爽やかな新緑の空気を、肺の奥まで吸いたいんだー。……ねえ!」

 ファ:「ああ……」

 ファ:「艦長、ブライト艦長。カミーユ・ビダンが……」

 ファ:「聞こえますか、アーガマ?」

 ファ:「……そう、アーガマもJAFに連れていかれたのね」

創作小話『disの使い方が特殊な論者とツバメ』

 その泡沫ブロガーで罵倒芸論者のAさんは、disの使い方が特殊すぎて、熱烈に支持していた最後の読者すらも離れてしまいました。
 「それでも私は、いまの芸風を続ける。普通のdisなど、私にはとうていできないのだから」

 すると、一羽のツバメがAさんのブログにやってきました。ツバメは、Aさんのブログの軒下に巣を作り始めました。それを見たAさんは、喜びました。
 「ほら、私の特殊なdisを鑑賞したい者が来たぞ、ではさっそく一句」
 「disに生まれ、disに消えゆく、我がネット上の身かな」
 「若き日の、罵倒芸論者としての信用は、それなりにあった私かな」
 「と思いきや、菊池誠教授のkikulogで、科学的に変な主張を一年ほどぶってしまい、退場勧告の憂き目にあってからは、御覧のありさまかな」

 それを聞いたツバメは、つぼにはまったので笑いました。笑いすぎて、倒れました。救急車で運ばれました。あとは、ツバメの作りかけた巣だけが、Aさんのブログに残った状態となりました。

 Aさんは、あきれて言いました。「やれやれ、また私のブログは閑古鳥が鳴く状態だ。それもこれも、あのツバメのせいだ」

 【教訓】これは、ネット上で気になるブログを見つけても、すぐには支持を表明せず、ブログの方向性をじっくりと調べたうえで支持するかどうかを決定しても、遅くはないというお話です。

ネタのお言葉『500歳が過ぎてdisの春とみなし、次の500歳が過ぎてdisの夏とみなす』

 この言葉は、あの荘子の「五百歳をもって春となし、五百歳をもって秋となす」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネットの果てに、「dis冥霊」という木があります。
 この「dis冥霊」の姿は、いつもはうっすらとしか見えませんが、500年に一度だけはっきりと見えます。

 disを続けて500年が経ち、「dis冥霊」をしっかりと拝見できたならば、あなたの罵倒芸は春を迎えたといえます。
 その後もdisを続けて500年が過ぎ、再び「dis冥霊」の姿をくっきりと拝見できたならば、あなたの罵倒芸は夏を迎えたといえます。
 その次の500年はdisの秋、また次の500年でdisの冬、これでdisの四季がひとつ完了したことになります。

 「dis冥霊」をはっきりと見た数が100回に達したとき、あなたは20万年ものあいだ罵倒芸を続けていた計算になります。

 この話を聞いて、「なるほど、20万年か。いままでネット上のdisり合いで負けてばかりで気落ちする日々を送っていたけれど、なんだかちっぽけなことに思えてきましたよ」
 というリアクションができたならば、正しい読み解きといえます。
 【意訳、おわり
 このようなポジティブ思考法を荘子は提示している。

ネタのお言葉『今日のdis、俺ルールに近ければ、遠くの恥辱も寄って来る』

 この言葉は、あの論語の「恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかる」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で見かけた他所のdisり合いに自信満々で参加し、逆に完全論破に追い込まれてしまった場合でも、あらかじめ聴衆に約束したdisりをまっとうすることは、「内容はともかく、一貫性はある」と受け止められて、一定の評価を得られることでしょう。

 その反対に、「あ、いまのなし、ぼくにとって不利だから、いまのなし」と言って自分に都合の良いルールを次から次へと持ち出す姿を見せたならば、もれなく聴衆から嘲笑のリアクションをもらうことでしょう。

 罵倒芸に不慣れな論者の場合、ネット上で行うdisり合いにおいては、いつも完膚なきまでに敗れて悲しいです。
 そのたびに、「私と罵倒芸って、合わないのかな……」と引退を考えてしまうわけですが、新しく知り合ったライバルと親しく反省会を行って解散できたならば、それはベターな罵倒芸人生といえるのですから、明日のdisりの活力としましょう。
 【意訳、おわり
 そのように有子は励ましている。

創作小話『ブログの管理をしてくれる人を探したムラビト的論者たち』

 そのムラビト的論者ばかりが集まるブログの管理人は、「とつぜんですが、今日かぎりでネット人生を終えます。あとは、皆さんにお任せです」と言って、姿を消しました。

 困ったムラビト的論者たちは、議論した末、知り合いのニセ科学批判者に頼んで新しい管理人になってもらうことにしました。
 そのニセ科学批判者は、「残念ですが、いまは数多のニセ科学を批判することで忙しいのです」と言って、断りました。

 次にムラビト的論者たちは、知り合ったばかりのニセ科学批判批判者に頼みました。
 ニセ科学批判批判者は、「それどころではない、私はネット上で見かけたニセ科学批判者たちの言論を、片っ端から批判してまわらねばならん宿命なのだ」と言って、断りました。

 次にムラビト的論者たちは、通りすがりの悪しき相対主義者に注目しました。
 「あの御方は、なんだか難しい言葉を使っていて、すごい有識者にちがいない」
 さっそく声をかけると、悪しき相対主義者はブログの管理人になることを承知しました。

 その後、ムラビト的論者たちは、悪しき相対主義者の『曖昧で抽象的で、どうにでも解釈できるような言論』を毎日聞かされて、消耗しました。

 【教訓】これは、自分たちの新たなリーダーを急に選ぶ必要にせまられた場合、吟味の時間があまりに少なくて、候補者の見極めに失敗して最もふさわしくない人物を選んでしまうというお話です。

創作小話『悪しき相対主義が得意なイヌと科学に疎いウサギ』

 茂みの中から、科学に疎いウサギが出てきました。
 それを見たイヌは、悪しき相対主義で論破に追い込もうとしました。

 ウサギは、頭の中にある少ない科学知識を、必死になって引き出しました。
 その結果、イヌの追及を振り切ることに成功しました。

 傍観していたヤギが、感想を述べました。
 「悪しき相対主義を得意気に振りかざしていたイヌさん、科学に疎い無名のウサギにすら勝てず」

 イヌは、気にしない様子で言いました。
 「遊びで言論を披露しているインテリの僕と、拙くても必死の気持ちで言論を披露するウサギとでは、議論がイーブンで終わっても当然さ」

 【教訓】これは、科学に疎い人でも真摯な気持ちがあれば有識者にも勝る主張ができるというお話です。

「もしもニセ科学批判者たちから主張の誤りを指摘されて不満を覚えた科学素人が、漫画『北斗の拳』のワンシーンを間違って思い出したら」と考えました

 モヒカン:「へっへっへ、俺は『苛烈に修正されて疲弊したムラビト的ブロガー』を見るのが大好きなんだ」

 ケンシロウ:「そんなに疲弊するんなら、お前が修正を受けてみろ」

 モヒカン:「はい、わかりました、やはり他人の気持ちを理解するには自分でも同じような経験をするのが一番ですよね」
 モヒカン:「じゃなくてだな、この俺は修正をしてあげる側の論者であってだな、修正を受ける側の身には絶対にならないんだって……いいい、いんがおう、っほ!」(注:ケンシロウから秘孔を突かれました)