ネタのお言葉『ただ諫言が返る、早く不興の案を無に帰せと』

 これは、あの「京師得家書」(けいしにてかしょをえたり)の罵倒芸版である。
 【意訳
 あるネット上の議論で一人の罵倒芸論者が、「こうすれば私の勝利が叶うのだ」とばかり、散々な理の主張を展開していた。

 途中で罵倒芸の論者は、「皆にも従ってもらうのだ」と言って、15個の俺ルールを箇条書きにしてログに掲げた。

 しかし、いくら待っても支持を表明する人は現れない。皆、沈黙を保っている。

 不思議に思った罵倒芸の論者が理由を尋ねると、一人の読者がようやくリアクションした。
 「今すぐに態度を改めなさい」
 「俺ルールの内容など問題ではなく、あなたの態度に皆は不満を抱いているのです」

 それを聞いた罵倒芸の論者は、「なるほど、その視点は頭になかった」と感心し、俺ルールを引き下げた。
 【意訳、終わり
 このようなケースがあったと袁凱(えんがい)は京師で報告している。

ネタのお言葉『モヒカン的論者に対して礼を説かず』

 これは、あの「牛に対して琴を弾ず」(うしにたいしてことをだんず)の罵倒芸版である。
 【解説
 思考がモヒカン的な論者の場合、情緒的なやり取りを嫌い、率直な物言いのやり取りを好むという傾向があります。

 そのために、モヒカン的な論者に向かって、「科学素人と対話するときは、専門用語を使わず分かりやい説明を心がけなさい」とか、「ニセ科学擁護者と対話するときは、その心情を思い量り、優しく寄り添い、ふわあっとしたダメ出しを述べながら遠回しの自覚に導いてあげなさい」と言ってあげたとしても、聞き入れてもらえる可能性は皆無であり、「ああ、諫言した分の時間が無駄に消費されただけに終わった」という台詞を述べることになります。

 というわけで、「ネット上の議論というものは、主張の中身を見るものではない、礼儀の態度が成っているか否かを一番に見なければいけない、冷徹に事実を淡々と記述する態度なんて、もっての他だ」という考えを改めましょう。

 これからのネット時代は、たとえ礼儀を重視する論者であっても、思考の真ん中に「disってあげますよ、メーン」という言葉を組み込み、モヒカン的な論者に向かって遠慮なく罵倒芸を駆使すべき時代を迎えているのです。
解説、終わり
 なお、「牛に対して琴を弾ず」という言葉も、遠い昔の時代には「モヒカン的論者に対して礼を説かず」だったのだが、時が経つにつれて文面が現在のものに変化したと言われている。

創作小話『科学的にダメな記事を書いたブロガーと、穏健なニセ科学批判者』

 Aさんが自ブログで主張しました。
 「この私は、『disの能力を通常の3倍に向上させる罵倒芸イオン』が実在すると確信している」
 「なぜならば、『罵倒芸イオンがこの宇宙のどこにも存在しない』ということを、証明した者が居ないからである」
 「ゆえに、罵倒芸イオンは実在しているといえる」
 「この主張を『なんじゃそら?』と思った者は、『罵倒芸イオンがこの宇宙に存在しない』という証拠を出してくれたまえ」

 すると、穏健なニセ科学批判者を名乗るAさんが現れて意見しました。
 「Aさんの主張は、説得力が今ひとつです」
 「プロの科学者たちの世界においては、『新規な主張をする人自身が確かな根拠を示す義務がある』と聞いています」
 「ここはひとつ、Aさんご自身で罵倒芸イオンの実在を示す証拠を探して公開してはいかがでしょうか」

 Aさんは、Bさんの態度を批判しました。
 「一読者の分際で、私の主張を頭ごなしに否定して、とどめに『己が先に自説の証拠を示せ、この科学おんち』と発言するとは何事か」
 「話を逸らすB氏こそ、私の主張が間違っているという証拠を出したまえ」
 「それがニセ科学を批判する者の義務である」

 これを聞きつけた苛烈なニセ科学批判者が、Aさんのブログに興味を持って、じっくりゆっくりと読み始めました。
 ただならぬ雰囲気を感じたAさんは、Bさんにお願いしました。「さっきの話は冗談だ、なかったことにしてほしい」

 Bさんは、困った様子で言いました。
 「私自身はかまいませんが、Aさんの今度の相手は苛烈なニセ科学批判者です」
 「Aさんの話が冗談だろうと本気だろうと気にせず修正してきますよ」

 【教訓】この話は、立証責任の転嫁を気楽に続ければ続けるほど苦しい状況に追い込まれるという現実を明らかにしています。

創作小話『悪しき相対主義者と、ニセ科学問題を知らない一般人のブログ』

 苛烈なニセ科学批判者から修正されそうになった悪しき相対主義者が、ニセ科学問題とは無縁の一般人が運営しているブログのコメント欄に紛れ込みました。
 それに気がつない苛烈なニセ科学批判者は、他所に行ってしまいました。

 安心した悪しき相対主義者は、ニセ科学問題とは無縁の一般人が運営するブログに向かってコメントしました。
 「ニセ科学とまともな科学は、相対的に同じです」
 「ニセ科学を批判すると、まともな科学を批判したことになります」
 「つまり、ニセ科学批判者たちの正体は、まともな科学批判者だったのです」

 ニセ科学問題と無縁のブログ主は、「一体、なんのこと? 私のブログでは、そのような話は一つもしていないけれど?」と返事しました。
 それを聞きつけた苛烈なニセ科学批判者は、「あのブログのコメント欄に、探していた獲物が居る……」と察知し、駆けつけて見つけて修正しました。

 たくさんのダメ出しをもらいながら、悪しき相対主義者は反省しました。「この仕打ちは当然です」
 「なぜならば、いま居る場所は『ニセ科学問題を知らない一般人が運営しているブログ』にもかかわらず、私は『いつでもどこでもニセ科学批判批判をしたいの!』という気持ちを抑えることができなかったのですから」

【教訓】これは、ネット上では「ニセ科学批判批判を大いに発表してもよい場所」と「そうでもない場所」があるので、ニセ科学批判批判のコメントを投稿する際に画面をもう一度よく確認しておきましょうというお話です。

ネタのお言葉『久しく離れていたニセ科学ブログ、見れば支持を寄せる人達の様子なく、ただ大概な主張を木霊させる人の姿あり』

 これは、あの「夏日田園雑興」(かじつでんえんざっきょう)の ニセ科学批判版である。
 【意訳
 ニセ科学批判ブログを開設した当初、私の文章は緊張気味だったが、最近は幾ばくか鷹揚な雰囲気を出せるようになった。

 共感してくれる読者も増え、私が科学的にダメな説を吐い時などは、受け流すことなく批判を返してくれる。

 そのために、自ブログが災禍にまみれて神経をすり減らすような事態も稀という、幸せな日々のネット人生である。

 その幸せに浸っていたある日の朝、ふと、「私がニセ科学批判者に転向するまで閲覧していたあのニセ科学擁護者のブログは、どうなっているだろうか」という思いが頭をよぎった。

 その日の夕方、久しぶりにそのニセ科学擁護者のブログを訪れると、あれほど居た支持者たちの姿が見えなくなっていた。

 ただブログ主は健在であり、以前にも増して摩訶不思議な説を声高に叫んでいた。
 「ええい、私の『罵倒芸イオン実在説』に対して無視を決め込んでいるきくまこ一派め、これから十数年にわたってネガティブキャンペーンをブイブイ云わしてやるぞ」

 しばし清聴していたものの、「到底リラックスできる説ではない」と判断した私は、飛ぶような勢いで自ブログに戻った。
 【意訳、おわり
 そのように范成大(はんせいだい)は夏日の田園で語っている。

創作小話『イヌと道に落ちていた医学的なエサ』

 空腹に困っていたイヌが道を歩いていると、『医学的に正しいエサ』という能書きが付されたエサが落ちていました。
 それを見たイヌは、大喜びでエサを食べました。
 すると、イヌの体調が急激に悪化しました。
 「これはどういうことだ」とイヌが能書きを改めて読むと、『ニセ医学的に正しいエサ』と書かれていました。
 「ニセ」の部分の文字が消えかかっていたので、見つけた当初は気がつかなかったのでした。

 意識が遠くなりながらイヌは反省しました。
 「これは当然の結果だ。ニセ医学的なエサかどうか、ぼくは確かめもせずに飛びついたのだから」

 【教訓】この話は、ネット上で見つけた医学的に変な内容の記事をよく読まないまま自説に取り入れると、もれなく後で痛い目にあうという現実を明らかにしています。