この言葉は、あの漢詩『題詩後』(しごにだいす)のニセ科学批判版である。
【意訳】
この三年、二人のニセ科学擁護者を相手にツイッター上でやり取りしてきた。
一人のニセ科学擁護者は、「科学の教科書なんか読みません。疫学? なんですかそれは」というばかりで、まったく話が進まず、物別れで終わった。
もう一人のニセ科学擁護者は、2年と11ヶ月あまり対話したあと、次のように考えを変えてくれた。
「いまだに専門的な知識は何一つ有していない私ですが、」
「それはともかく、科学的にインチキな説がネット上をドヤ顔で闊歩している場合があるために、」
「万が一目撃したときは、鵜呑みに信じてはいけない、」
「ましてや、自分のウエブサイトで肯定的に紹介してはいけない、」
「それをすれば、ネットモヒカン族から容赦ないツッコミが山ほど送られて疲弊し、」
「支持者たちも呆れて離れ、」
「自分の論者としての信用が大幅に低下した現実に呆然として一人佇むという結果もゼロでないことは、承知いたしました」
ようやく私のニセ科学批判が実を結んだ。過去ログを読み直すうちに涙があふれ、画面がぼやける。
この画面をはっきり見ているニ科学批判批判者たちが、「まあ頑張ったほうじゃないの、役立たずのニセ科学批判者にしては」という評すら与えてくれないのならば、今すぐ私のツイッターのアカウントを消して、リアルな世界でのニセ科学批判に持てるリソースをすべて注ぎ込んでしまおう。
【意訳、おわり】
そのように賈島(かとう)は「題詩後」に記している。