ネタのお言葉『disのコメント、良い出来に非ざるはなく、disのコメント、悪い出来に非ざるはなし』

 この言葉は、荘子の「もの、あれに非(あら)ざるはなく、もの、これに非ざるはなし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 あれやこれやと文章の構成を試行錯誤して、ようやく仕上げたdisコメントをネット上にアップして、
 「今日もまた、美しいdisコメントを読者さまにお見せすることができましたわ」と感慨に浸るも、しばらく時が経って見直せば、
 「あらら? こんな変なdisのコメントを、あたくしは書きましたかしら?」となります。

 あるいは、「なんとなく調子が悪いから、今日は適当にdisって終わろうかな……」という感じで公開したdisコメントであっても、しばらく時が経って見直せば、
 「これはすごい、誰よりも的を射たdisだ、いったい誰のdisだろう? はっ!? 僕が書いたdisじゃん!」となります。
 このように、ネット上でしばらく罵倒芸を行っていると、良い出来だったはずのdisが悪い出来のdisに見えてしまったり、その逆パターンも発生したりします。

 というわけで、「これこれこのように仕上げたdisだけが良いdisといえるのだ、それ以外の方法で作ったdisはダメなdisなのだ、そんなの絶対に公開してはいけないdisなのだ」などと固く考えず、
 「腹八分という言葉もあるように、まあまあよく出来たdisのコメントならば、それでよしとする」という緩やかな規律を自分に課しましょう。
 そうすることにより、ゆったりとした気分で画面と向き合うことが可能となり、引退する日が来るまで心の落ち着いた罵倒芸を行うことができます。
 【意訳、終わり
 そのように荘子はアドバイスしている。

ネタのお言葉『われ、いまだ真のdisを好む者、不真のdisをにくむ者を見ず』

 この言葉は、論語の「我未(いま)だ仁を好む者、不仁を悪(に)くむ者を見ず 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「これまで私は、真のdisを探究しながら一方でダメなdisを憎むという論者の姿を、ネット上でひとりも見たことがありません」
 「真のdisを探究したいという志、それを持つだけで罵倒芸の論者として十分といえます、たとえば」
 『ダメなdisを公開するだなんて……。ダメなdisを公開する、僕だなんて!!』
 「と思う論者は、良いdisの仕上げに神経を集中します」
 例:『今日も朝から晩まで、渾身のdis作りにがんばるぞい!』

 「そのような論者は、他所の議論に参加して相手からダメなdisをもらった際に、」
 『これ以上のやり取りは、私の時間を無駄に消費する行為でしかない、というのが率直なところだ』
 「と言って、早々に見切りをつけて去ります」

 「もしも、このような行動をネット上に居るすべての論者が実践すれば、結論がなくて長いだけのログは消え去って、早期に相互理解に達したログばかりを画面で見ることになるでしょう」
 「まるで夢のような話だと思うかもしれませんが、私自身は可能性がゼロでないと信じていますので、これからもネット上にある数多のdisり合いのログを訪れて説教する日々を送ります」
 【意訳、終わり
 孔子が放浪の旅をしていた頃のネット上においては、真のdisに興味を持つ論者が居なくなっており、
 「雑なdisだろうがなんだろうが! 議論で一人勝ちできればよかろうなのだ!」
 という考え方の論者たちが跋扈しており、読者たちも大いに持て囃しており、その風潮がなかなか変わらないことを孔子は嘆いたのである。

ネタのお言葉『季文子、ニセ科学批判批判を三たび思いたのちに行う、これを聞いた孔子いわく、再び思う時点で可なり』

 この言葉は、論語の「季文子(きぶんし)、三たび思いてしかる後に行う。子、これを聞きて曰わく、再びせばこれ可なり」のニセ科学批判批判版である。
 【意訳
 魯の宰相だった季文子は、ニセ科学批判批判の文章をネット上で公開する前には、いつも三回見返して誤字脱字や論理の飛躍がないかどうか、念入りにチェックしていました。
 これを知った孔子は、「原稿の見返しは二回でよいでしょう」と言いました。
 【意訳、終わり
 当時、季文子は自分のブログを開設する際に、
 「読者さまは簡潔明瞭なニセ科学批判批判を望んでおられます、私もそれに応えるブロガーでありたいと思っています、」
 「ゆえに、限界まで短縮したニセ科学批判批判の文章を作って日々提供する所存です」
 と表明し、そのとおり実行して読者を大いに喜ばせた。
 孔子も季文子のコメント作成能力を高く評価しており、三回の推敲は過剰に慎重を期していると考えて、二回までの推敲で十分に完成したニセ科学批判批判の文章が作れると助言したのである。

ネタのお言葉『まさにスパモンによってdisのアドバイザーと為さんとす』

 この言葉は、論語の「将に夫子を以て木鐸と為さんとす」の罵倒芸版である。
 【意訳
 あるブログを孔子とその弟子たちが閲覧すると、ブログ主は言いました。
 「これまでの私は、自分のブログを訪れる読者のすべてを賢人とみなして対話してきましたが、今日こそはいよいよへりくだって話を聞きたいと思います」
 「いまのネット上は、主張の中身が薄いわりに炎上の成分は異様に濃いというタイプのdisが、そこかしこで持て囃されている有り様です」
 「その風潮に疑問を感じ、官職を捨ててまで数多のブログを放浪して真の罵倒芸を説く孔子さまは、まさに空飛ぶスパゲッティ・モンスターが遣わしたdisのアドバイザーです」
 「どうぞ本日はご高説を存分にぶってください、孔子さまが去ったあとも、みごと私は真の罵倒芸を探究し続けてブロガー人生を終えることでしょう」
 【意訳、終わり
 これは数千年前の出来事であるが、当時のネット上の罵倒芸論者たちの大半が安易な気持ちで炎上芸に走っていたことに憂いを抱いていた無名のブロガーの気持ちは、現代に生きる我々も「うんうん、そのとおりですじゃ」と頷かせてくれる。

ネタのお言葉『ただ静寂の中で批判するブログ、たまに同調の声が飛んでくるあり』

 この言葉は、范成大(はんせいだい)の「夏日田園雑興」(かじつでんえんざっきょう)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ニセ科学推進者たちの声が倍化している昨今にして、さすがに私も我慢の限界を超えて批判ブログを開設した。
 
 無名の論者である私だが、それでも幾ばくかは科学的に正しい説を書くことにより、画面の向こうに居るサイレントマジョリティに評価を託す。

 私のブログの影響力がニセ科学推進者たちを凌駕する日が遠いことも承知してリラックスしており、悲観は少しもよぎらない。

 ネット上にある数多のニセ科学説に自分の過疎ブログからダメ出しする作業、まったく静かだなあと思っていると、一人の読者が現れて、「研究者としてなんの実績にもならないことをしているか? だが、大儀である」と応援の声を送ってくれた。
 【意訳、終わり
 そのような夏日があったと范成大は田園で術懐している。

ネタのお言葉『disの画面に従えども後ろ姿を見ず』

 この言葉は、老子の「これに随(したが)えども後(しりえ)を見ず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で他所のdisり合いに参加した際に、初めは余裕でdisを投稿していたものの、次第に自説が不利になってくると、「なんでもよいからとにかく急いで反論せねば!」という心境になり、粗雑な出来のdisを多投し、ますます論敵たちを喜ばせる結果となります。

 およそネット上のdisり合いというものは、画面の向こう側の現象に気を取られがちであり、自分の姿を客観的に見ることが叶いません。
 そのようなときは、ネットの画面から離れて、鏡を利用して自分の後ろ姿を眺めて客観的な感覚を取り戻しましょう。
 そうすれば、disコメントの内容から主観が排除されて説得力が高くなります。

 「いや、disり合いは熱い感情に任せて途切れることなくコメントを投稿すべきだ、それが一人勝ちへの近道なのだ」と思う御方もいらっしゃるかもしれませんが、disり合いにはここぞという重要な時機はわずかなものであり、けっこう画面から離れていても大丈夫です。

 逆に考えると、ここぞというタイミングを見極める能力さえ身に着けておけば、ネットから離れて別の作業に没頭することも可能です。
 事実、経験を積んだベテランの罵倒芸論者たちは、四六時中ネットに張り付くことがなく、朝起きたときに1回、朝食前に1回、朝食後に1回という感じで、日常生活のついでにちらっとdisを投稿するスタイルです。

 というわけで、「いまの私、ネットの画面ばかりに気を取られているかも?」と思った際は、自分の後ろ姿を見つめてクールヘッドを取り戻しましょう。
 【意訳、終わり
 そのように老子はアドバイスしている。

ネタのお言葉『技のdisから自然のdisに進む』

 この言葉は、荘子の「技より進む」の罵倒芸版である。
 【意訳
 昔、ある料理人が牛を流れるような動きで解体して、文恵君に褒められたうえで退場しました。
 次に、罵倒芸論者のAさんが文恵君の前に現れて、ネット上のdisり合いで圧勝する様を見せました。

 感心した文恵君が圧勝した理由を問うと、Aさんは言いました。
 「罵倒芸の論者としてネット上にデビューしたころは、あれがこうなって、それがああなってと、理屈をいちいち考えながらdisのコメントを作っていましたが、」
 「数十年ほどdisり合いの日々を過ごしているうちに、脳内の神経細胞が時機に応じたdisを勝手に組み立てるようになったのでございます」
 「つまり大脳的なdisではなく、小脳的なdisを作れるようになったのでございます」
 「そのために、今では他所のdisり合いに遅れて参加しても、画面をサッとスクロールして、相手の論の穴をギュッと把握して、シュッとしたdisを放つ私でございます」

 それを聞いた文恵君は、「これこそが大自然と一体化した罵倒芸である」と得心し、褒美として『プロの職人が杉の間伐材で作った一品物のスマートフォンケース』をAさんに与えました。
 【意訳、終わり
 なお、一部の研究者は、これが本来の内容だったと考えている。数千年が経つうちに、罵倒芸のくだりが省略されてしまったという。

ネタのお言葉『飛び起きてネットの画面を見る、慧眼の批判にただシャッポを脱がん』

 この言葉は、蘇軾(そしょく)の「渓陰堂」(けいいんどう)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 爆睡していた休日の朝、ネットをうつらうつらと見つめる。

 「そろそろニセ科学推進者のご高説が下されるころだな」と思っていると、すでに曲解度の高い記事が一千も投じられている。
 
 科学素人の私に真っ向から口を挟む余地はなく、論外の主張を悔しく眺めるのみ。

 「今朝も散々に非科学的な記事を読んでしまった、気分直しに二度寝をしよう」と言って横になる。

 ちょうどそのとき、ネット上にニセ科学批判者たちが現れた。
 「来たかっ」と急いで起き上がり、画面に正対する。

 科学的な根拠を流暢に述べてニセ科学推進者の記事を速やかに論破する様に感激し、帽子を外して頭をさげる私であった。
 【意訳、終わり
 そのような休日があったと蘇軾は渓陰堂で記している。

ネタのお言葉『いずくんぞ佞のニセ科学批判を用いん』

 この言葉は、論語の「いずくんぞ佞(ねい)を用いん」のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ある人がツイートしました。
 「ネット上で活動しているニセ科学批判者たちの一部には、ニセ科学擁護者と対話する際に淡々とした態度を見せるばかりで、暖かい言葉の一つもない者が居ますが、これはいかがなものでしょうか?」

 それを聞いた孔子は言いました。
 「場合によっては、淡々とした態度も有りといえます」
 「たとえば、ニセ科学擁護者の心情に寄り添うことに気を取られすぎていると、ニセ科学擁護者は次のような疑念を抱きはじめます」
 『なんだか慇懃無礼なニセ科学批判者だな? もしかして、科学素人の私をバカにしているのかな?』
 「それはやがて確信となり、」
 『そんな慇懃無礼で心のこもっていない対話しかできないから、世のニセ科学批判者たちは役立たずと言われているんだよ!』
 「と怒りと失望を表して、去ってしまいます」

 「もちろんニセ科学擁護者の背景事情に思いを馳せつつ、優しくふわあっとしたダメ出しを呈し、遠まわしの自覚に導いてあげるニセ科学批判が理想ですが、」
 「それが現時点で実行できないニセ科学批判者は、」
 『聴衆の印象がどうのこうの、長期的な戦略がどうのこうの』
 「などと考えず、目の前にある科学的な間違いに簡素な指摘を放って終わる態度が無難といえるでしょう」
 【意訳、終わり
 このように孔子はモヒカン的な態度を比較的ましなものとして評価していた。

ネタのお言葉『disの使いは好機に合わせて発す』

 この言葉は、論語の「民を使うに時を以(も)ってす」の罵倒芸版である。
 【意訳
 disブログを運営すると決めた際は、功を焦ることなく、派手な炎上芸に走ることなく、慎みを重んじた罵倒芸を実行して読者の信頼を得ましょう。

 余分なdisの言葉をこれでもかと入れた長い記事は避け、短時間で堪能できる簡素な罵倒芸を読者に披露しましょう。

 他所のブログとdisり合いを行うときは、disの乱発を避けましょう。dis思考の酷使も控えましょう。
 、ひとつのdis予稿とじっくり向かい合い、推敲が終わっても直ぐには公開せず、disり合いの流れを観察し、頃合を計りましょう。
 好機が来たと判断したら、「反論時間でございます」と言ってdisコメントを差し出しましょう。

 以上の行動を不足なく実現できれば、まず安泰のネット人生を過ごせるでしょう。
 【意訳、終わり
 このような運営方針がdisブログに相応しいと孔子は言っている。