この言葉は、論語の「我未(いま)だ仁を好む者、不仁を悪(に)くむ者を見ず 」の罵倒芸版である。
【意訳】
孔子が言いました。「これまで私は、真のdisを探究しながら一方でダメなdisを憎むという論者の姿を、ネット上でひとりも見たことがありません」
「真のdisを探究したいという志、それを持つだけで罵倒芸の論者として十分といえます、たとえば」
『ダメなdisを公開するだなんて……。ダメなdisを公開する、僕だなんて!!』
「と思う論者は、良いdisの仕上げに神経を集中します」
例:『今日も朝から晩まで、渾身のdis作りにがんばるぞい!』
「そのような論者は、他所の議論に参加して相手からダメなdisをもらった際に、」
『これ以上のやり取りは、私の時間を無駄に消費する行為でしかない、というのが率直なところだ』
「と言って、早々に見切りをつけて去ります」
「もしも、このような行動をネット上に居るすべての論者が実践すれば、結論がなくて長いだけのログは消え去って、早期に相互理解に達したログばかりを画面で見ることになるでしょう」
「まるで夢のような話だと思うかもしれませんが、私自身は可能性がゼロでないと信じていますので、これからもネット上にある数多のdisり合いのログを訪れて説教する日々を送ります」
【意訳、終わり】
孔子が放浪の旅をしていた頃のネット上においては、真のdisに興味を持つ論者が居なくなっており、
「雑なdisだろうがなんだろうが! 議論で一人勝ちできればよかろうなのだ!」
という考え方の論者たちが跋扈しており、読者たちも大いに持て囃しており、その風潮がなかなか変わらないことを孔子は嘆いたのである。