ネタのお言葉『ムラビト論者のブログ跡、いまだ冷徹のdisありし』

 この言葉は、 駱賓王(らくひんのう)の詩「易水送別」(えきすいそうべつ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ネットの果てで見つけたブログ跡、それは、他所のサイトで見かけた数多のニセ科学的な説を、愉悦と共に紹介している科学素人のブログ跡であった。
 最後に更新された記事には、ブログ主の思いが書き残されていた。

 「僕はおかんむりだ」
 「原因は、あの忌々しいネットモヒカンたちだ」
 「今日こそは、逆に僕が奴らの拠点に乗り込むのだ」
 「散々に論破して、大いにギャフンと言わせて、ふんぞり返って自ブログに凱旋して、愛読者たちと共に勝利を祝うのだ」

 その記事が公開されて数百年、すでに当人たちは永遠のROM専門と化していて、ニセ科学問題の議論に没頭することもなくなった。
 せめてブログのコメント欄に、モヒカン的な思考の者たちが残した冷たいツッコミ群を認めるのみである。
 【意訳、終わり
 そのようなブログを閲覧したと駱賓王は易水のほとりで記している。

ネタのお言葉『夢に調子の良いdisとなる』

 この言葉は、荘子の「夢に胡蝶となる」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ある新人の罵倒芸論者であるAさんが、睡眠中にありえない夢を見ました。
 世のすべてのニセ科学批判者たちに向かって、シュッとしたdisを放って、一人勝ちを収めて、ニセ科学批判批判者たちに胴上げされるという夢でした。

 その後、目が覚めたAさんは、もっさりしたdisを述べる自分に戻っていました。
 【意訳、終わり

 夢の中で明晰なdisを述べていた自分が、本当の姿か。
 それとも、目が覚めたあとで読者の心にまったく響かないdisを述べている自分が、本当の姿か。
 いや、そんなことに思考を使うのは時間の無駄でしかない。夢の自分も現実の自分も同じく自分であり、同じく事実としよう。

 そのように納得すると、
 「あの論者のdisり方はダメすぎだ、これこれこのようにdisるべきだ」
 と表明することが、いかにも虚しい行為に思えてくる。
 自分がダメすぎと看做す他人のdisり方も、第三者から見ればもの凄いdisり方に見えており、マジリスペクトしているかもしれない。
 
 自分の視点が絶対に正しいと思わず、たまには違う視点に立って他人のdisり方を観察すること。
 すると、普段と違う新鮮な罵倒芸が見えてくる。
 「いろんな角度からのdisり方があるのだなあ」と感心し、ネットの広大さを知る。
 この一連の行動こそ、「多様性を認める」という言葉の具体例なのだ。

ネタのお言葉『炎上芸の知や涯(かぎり)なし』

 この言葉は、荘子の「知や涯りなし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 どんな罵倒芸の論者でも、ネット上の人生で使用できるリソースは有限です。
 それを鑑み、「効率よくdisコメントを公開できると同時に、手っ取り早く有名になれる方法とは何か?」と思案し、「やはり炎上芸だろう」と結論します。
 さっそく炎上芸を実行し、「予想を上回る反響だ!?」と驚き、「この路線で行けば、私はあっという間に地球規模の論者なのだ!」と確信します。

 しかし、すぐに壁にぶつかります。なにしろ読者たちが、
 「あの御方ならば、昨日よりもすごい炎上芸を見せてくれるに違いない」
 「あの御方ならば、明日はもっとすごい炎上芸を見せてくれるに違いない」
 と期待感を膨らますために、自分も全力で答えるべく、休みなく連日で炎上芸を披露します。

 しだいに炎上のネタを考えるのが負担になり始め、無理やりなネタで炎上を起こそうと頑張り、スベってしまって読者たちが離れ、
 「どうすればいい!? どうすれば読者が戻ってくれるんだ!?」と思い悩み、神経を大いに消耗し、ついに倒れ込んでしまいます。
 このように、ネット上における炎上芸はコントロールが難しく、ほとんどの論者が焦げ付いて自滅するのです。
 【意訳、終わり
 炎上芸を長期間にわたって披露したい場合は、
 「悪名でもいいから世間に広く知られたい、そのためにも他人の神経を逆撫でする発言を山ほど公開せねば」
 という考えを捨てて、「筋の通った主張を9割、ちょっとトゲのある言葉を1割」という考えを採用し、プチ炎上を狙うべきである。

 思惑通りにプチ炎上が成功したときは、それ以上の燃えを求めて追加の燃料を投下しないこと。
 閑古鳥が鳴くほど静かになった頃に、再びプチ炎上を起こせばよい。

 連続ではなく、飛び石的にプチ炎上を発生させる。疲れも蓄積しないし、ゆっくりと自分のリソースを消費できる。
 「安らかなネット人生が一番だ」と考えるならば、この方法の一択で決まりである。

ネタのお言葉『このdisり正しければ、令せざれども行わる』

 この言葉は、論語の「其(こ)の身正しければ、令(れい)せざれども行わる 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「自ブログで正論のdisを日々公開していれば、声高に指図しなくても、読者たちは正しいdisを述べる自分でありたいと思うようになります」
 「自ブログで筋の悪いdisばかりを公開していたならば、たとえ遠慮がちに指図しても読者たちは、『あなたに私の罵倒芸のことをあれこれ言われたくありません』と言い残して去ります」
 【意訳、終わり
 ネット上のあちらこちらでは、直接に面識の無い人々が意見をぶつけ合い、「今の君は間違っているよ、これこれこのようにすべきだよ」「それは我輩の台詞である、貴公こそ言動を改めて我輩に習いたまえ」という感じで、指図もぶつけ合っている。

 そして聴衆は、理路整然としたdisを述べている論者に魅力を感じ、「自分もあの御方のレベルになろう」と思い立ち、真の罵倒芸を探究するようになる。
 一方で、人格攻撃、論点のすり替え、後釣り宣言、あと知恵バイアスに基づく評論、これらをドヤ顔で実行している論者に対しては、
 「今すぐに議論の場から出て行け」「植物園に行ってホオズキの花言葉でも暗唱していろ」といった感じで、聴衆は嫌悪を示す。

 これは、ニセ科学批判批判の活動にも言えることである。
 常日頃から正しいニセ科学批判批判のコメントを公開している論者ならば、一度くらい上からの目線で説教しても、読者たちは素直に聞き入れてくれる。
 反対に、私怨的なニセ科学批判批判のコメントを乱造している論者は、一度でも上からの目線で説教しようものならば、たちまち四方八方から叩かれてズタボロの姿を晒す。

 今の私の場合、「いかなるお題の議論でも常に正しいdisを公開できる自分」にまったく達していない状態であるが、そのような自分で在りたいという思いを忘れずに持っておきたい。

「もしも穏健派のニセ科学批判者が、老子の『正言は反のごとし』という言葉の意味を間違って覚えていたら」と考えました

 「正しい科学の啓蒙は反科学のごとし」
 「ニセ科学的な説を信じている人にとっては、ニセ科学批判者の言い分こそ怪しく思えるわけであり、非合理な話を聞かされているようでうんざりするのです」

 「これを踏まえつつ、ニセ科学擁護者の心情に寄り添いながら優しく遠まわしのダメ出しを実行すれば、反感を持たれて物別れに終わる事態も少なくなり、」
 「それどころか、『ネット上で一番に頼れるニセ科学批判者だ、弟子にしてください』という言葉がもらえる日の到来も、ぐっと近くなります……という意味」

ネタのお言葉『スパモンのヌードル網恢恢、疎にして良いdisを見逃さず』

 この言葉は、老子の「天網恢恢、疎にして失わず」(てんもうかいかい、そにしてうしなわず)の罵倒芸版である。
 【意訳
 自分の知名度を手っ取り早く上げたいと考える新人の論者は、あれやこれやと評論を積極的に展開しますが、
 「なんだか、読者たちの反応がいまひとつだな? 芸風を変えようかな?」
 と思い、普通の評論をやめて、少しずつトゲのある評論に移行し、やがて炎上芸のみを実行するようになります。

 炎上芸ならば、推敲の作業を省いたコメントを好きなだけ公開できます。
 読者たちの反応も抜群ですから、一石二鳥のお得な芸です。
 このような次第で、ネット上には炎上芸の論者たちばかりが目立つようになります。

 一方で、真の罵倒芸を探求している論者は、地味にdisの研究に勤しみます。
 閑古鳥の鳴き声が聞こえるだけの日々を、数十年も過ごします。
 ついには、「このまま私は誰にも注目されず、一人寂しくネット上から消え去る身なのだ」と悲観します。

 しかし、そこまで気分が落ち込んだ日の翌朝、見知らぬ読者たちが現れて、賞賛のコメントを大量に発表してくれます。
 その見知らぬ読者たちは、数十年の間、サイレントマジョリティとして、ずっと見守ってくれていたのです。
 【意訳、終わり
 この話のタイトルにある「スパモンのヌードル網恢恢」とは、サイレントマジョリティの読者たちを指したものである。
 真の罵倒芸を地道に探究している論者は、今は不遇でも、いつの日にか世間に広く評価される運命である。
 炎上芸で有名になった論者は、しょせんは虚名にすぎず、やがて飽きられて世間から見放される運命である。

 サイレントマジョリティの読者たちは、ネット上の片隅にひっそりと公開されたdisであっても、絶対に見逃さないサーチ能力を持っている。
 このことを、老子は数千年前に知っていたのである。

ネタのお言葉『流暢で精勤なdisを渡す人あり』

 この言葉は、王維の詩「寒食汜上作」(かんしょくしじょうのさく)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ニセ科学なる怪しい説があることを知り、ネット上のどの辺で見られるものかと探し始めると、そんなに探すまでもなくけっこう広く流布していた。

 テレビ番組の「世界ふしぎ発見!」ならば即座のボッシュートかと思うほどの、乱文で聞くに耐えない言説であり、
 思わず、「だめだ、今すぐに暗幕を下せ」と独り言が出る始末。

 「科学的に間違っている説が社会に蔓延している、日々あくせく批判しても駆逐が追いつかない」と主張する論者も居て、
 私も楽観できない現状と認識し、山ほど憂いを抱く。

 そんな私を尻目にして、どこぞから現れた流れのモヒカン的な論者が、一人のニセ科学擁護者を完膚なきまでに論破して、画面の外に去っていった。
 【意訳、終わり
 このような寒食の日があったと王維は記している。

ネタのお言葉『disの学は及ばざるが如くするも、なお過去のdisを失わんことを恐る』

 この言葉は、論語の「学は及ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)おこれを失わんことを恐る」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「罵倒芸を学ぶと決めたならば、惜しみなく新しい罵倒芸を学びましょう、そして過去に覚えた罵倒芸も忘れないように気をつけましょう」
 【意訳、終わり
 真剣に罵倒芸を探究し始めると、いつのまにか夢中になって、寝食も惜しんで数多のdisり方を頭に記憶しようと頑張ってしまうわけだが、そうすると今度は、以前に使用していたdisり方を古いと感じて使用しなくなり、
 「そういえば、あのdisり方も、このdisり方も古くさいなあ」
 と思い始めて、次々と封印してしまう。結果、disのバリエーションが少ない論者となる。

 新しいdisの知識を仕入れると同時に、過去に覚えたdisの知識も忘れないようにすれば、着実に真の罵倒芸の姿が見えてくる。
 これは、孔子のネット時代でも我々のネット時代でも変わらない事実である。
 読者様も、過去に使用していたdisり方を記憶から消去することなく、「いつの日にか、再び日の目を見るかもしれない」と期待して、思考の引き出しの奥で暖めていよう。

「もしも罵倒芸の論者が、呉子の『先ず和して而(しか)る後に大事を造(な)す』という言葉の意味を間違って覚えていたら」と考えました

 「まず和やかな下地をこしらえると思惑外の大disを成す」
 「ネット上でdisり合いを行う際には、論者の皆が、」
 『有意義なdisで語り合いたいな、事情を知らない人でも一読で得心するようなdisログにしたいな』
 「と思って参加すれば、当初に予想した利益をはるかに上回るものすごい結果が出て皆が唖然とするのです……という意味」

ネタのお言葉『disの席が正しからざれば、座せず』

 この言葉は、論語の「席正しからざれば、坐せず 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「論理の筋が曲がっているdisコメントを議論の場で公開したときは、なんとなく居心地が悪くなるものです」
 「その状態では議論に集中できませんので、論理を真っ直ぐにしたdisのコメントを速やかに追記しましょう」
 「そうすれば、以後はゆっくりと安楽椅子に座って画面を眺めることができます」
 【意訳、終わり
 たとえ罵り合いで勝負している場であっても、筋の通っていないdisコメントは読む人の理解を阻むことに間違いはない。
 余計な反感をもたれて、自分の論者としての信頼が地に落ちてしまう場合も考えられる。

 もちろん、「そんなこと言ったって、ネット上のdisり合いは即応性が大事なんだよ、いちいち自分の主張の筋の良さを考えながらdisるなんてできないよ!」という意見もあるだろう。
 しかしながら、目の前の論敵だけでなく第三者のことも意識するならば、やはりシュっとしたdisを見せるほうが理にかなっている。
 面倒ではあるが、「筋が曲がっているdisの原稿を真っ直ぐな内容に直したのちに、投稿ボタンを押す」という行動を慣習としよう。
 それが聴衆に広く支持してもらえるポイントだと孔子も指摘している。