ネタのお言葉『論者はその一のdisに居る』

 この言葉は、老子の「人はその一に居る」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上には多くの罵倒芸論者が活動しており、disり方も千差万別ですが、ほとんどの罵倒芸論者が心の中で、「自分のdisり方が誰よりも一番に優れている」と思っています。

 一方で、真の罵倒芸を探究している論者は、「この私は、大宇宙の片隅で小さくdisっているだけの、修行中の者にすぎない」と考えています。
 寝ているときも起きている時も、「よりよいdisり方とはどのようなものか、そもそもdisとは何か?」と自問した結果、
 「大宇宙の作用に逆らうことなく、自然の流れに任せてdisの文章を組み立てる」という一つの答えにたどり着いたのです。
 【意訳、終わり
 あれやこれやとdisり方に工夫を凝らすのもよいが、あまりに凝っていると、
 「もっと上手いdisり方を見せねばならない、もっと高尚なdisを読者たちに届けねばならない」
 という考えに支配されてしまい、神経を消耗するばかりの日々が始まる。

 その事態から逃れるためには、「私は今、広い宇宙の、ごく限られた範囲でdisっている、一人の地球人だ」とつぶやこう。
 すると、「神経をすり減らすまでdisり方を工夫するのって、つまらない時間の使い方だよね」と思うようになり、
 「結局、素朴なdisが、いちばん強いんだよね」とポケモンゲームに登場するダイゴさんのような台詞を述べるようになり、それまでの悩みが消えて穏やかな気持ちになれる。
 このような「スランプ時の脱出方法」を老子は提案している。

ネタのお言葉『disの意なく、disの必なく、disの固なく、disの我なし』

 この言葉は、論語の「意なく、必なく、固なく、我なし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が弟子たちに言いました。「ネット上の議論においては、控えるべき罵倒芸が四つあります」
 「自分の勝手な判断で他人を吊るし上げる罵倒芸、」
 「無理やり他人をdisり合いに付き合わせる迷惑な罵倒芸、」
 「自説の正しさを信じて四方八方に勝ち誇る驕りの罵倒芸、」
 「他人に得をさせることは許さず自分一人の得を求める利己的な罵倒芸」
 「これら四つはダメな罵倒芸なので、実行を控えておきましょう」
 【意訳、終わり
 ここで挙げられた四つの罵倒芸を封印したならば、まず無難なネット人生を送れる。
 加えて、この四つの罵倒芸の反対を行えば、万人から慕われる論者と成れる。

 この孔子の分析は数千年前のものであるが、現代のネット上でも十分に通じると思われる。
 真の罵倒芸を朝に夕に探求している読者様も、時間の余裕ができた際に試してみよう。

ネタのお言葉『disを例えるならば山を作るがごとし』

 この言葉は、論語の「譬(たと)えば山を為(つく)るが如(ごと)し 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「真の罵倒芸を探究する行為とは、たとえば土をもっこで運んで山を作るようなものです」
 「もう少しで山が完成という時に、『むっちゃしんどい、もう嫌だ、こんな作業』と言ってもっこを放り出したばらば、中途半端で格好の悪い山がぽつんと佇むことになります」

 「また、disのコメントを推敲する行為は、たとえばデコボコの地面を平らにするようなものです」
 「ほんの小さじ一杯分の土を掬って狭い範囲を平らにして終わり、『今の私には、この程度の作業しかできないのだ』と思ったとしても、それは立派な費用対効果です」
 【意訳、終わり
 disり合いが白熱してくると、「論敵よりも多くのdisを公開しなければいけない、とにかく数で圧倒しないと僕は勝てないんだ」という思考になりがちだが、そこで一呼吸して思考を落ち着かせ、ひとつのdisコメントの完成度にこだわってみよう。

 「言いたいことがちゃんと表現できているか、論理にツッコミを入れられる隙はないか、毒のある言葉を盛り込みすぎてしまって、読者たちが賛同を表明したくでもできないような文の構成になってはいないか。これらをもう一度、念入りに時間を掛けてチェックだ」

 このスタンスでdisの原稿に向き合ってみよう。最初は面倒に思っていた推敲の作業でも、しばらくすれば楽に行えるようになり、やがて他の罵倒芸論者たちが作るdisコメントとは比べ物にならないほどの、もの凄い完成度の高いdisコメントができるようになる。

 もちろん、「ひとつのdisコメントを作る際に、そこまで時間を掛ける必要はない、その場で頭に浮かんだdisの言葉を即座にネット上で具現化すればよい」という考え方も一理あるし、それで圧勝できる場合もあるだろう。
 しかしながら、長期的に見るならば、「ひとつのdisコメントの仕上げに山ほど時間をかける、せめて砂の一粒くらいの注意を向ける」という考え方が有益であることに間違いはない。

 「これまでなんとなくの気分でdisっていました」という読者様は、是非とも「ひとつのdisコメントの完成度に拘って、あれやこれやと推敲する」という作業を試してほしい。今までと違う境地が見えてくる。

ネタのお言葉『われに三宝のdisあり、持してこれをネット上で保つ』

 この言葉は、老子の「われに三宝あり、持してこれを保つ」の罵倒芸版である。
 【意訳
 老子が言いました。「私には、三つの貴重なdisがあります」
 「一つ目は慈しみのdis、二つ目は倹約のdis、三つ目は、あえて罵倒芸の最先端とならないdisです」
 「この三つのdisを維持して、私はネット上の人生をまっとうします」
 【意訳、終わり
 他人のためになるdis、ここぞという時に発揮するdis、よそのdisり合いにも滅多に参加せず、自分のブログ内において真の罵倒芸に思いを巡らす。
 これを日々実行したならば、自然と皆から尊敬される論者と成る。

 功を焦って罵詈雑言を乱発しても、神経が疲れるだけである。
 他の論者たちとdisを競い合いたいとか、常に自分がナンバーワンのdisを見せる論者でありたいとか、そんな考えは捨てて、地道に自分のdisを磨こう。
 ゆっくりとしたdisの歩みであっても、いつの日にか大きなdisの山にたどり着く。

ネタのお言葉『批判的思考を頼み、ネットモヒカンで居ること二十年』

 この言葉は、呉偉業(ごいぎょう)の詩「口占」(こうせん)のニセ科学批判版である。
 【意訳】
 計算尺を買おうと家を出たところ、途中で足るほどの銭を持っていないことに気づく。
 仕方なく家に戻って、ネット上で目に付いたデマを叩き歩いて、悪運を退ける。

 叩きつぶしたデマのひとつ:
 「この宇宙に罵倒芸イオンは実在する」
 「嘘だと思う者は、この宇宙に罵倒芸イオンが実在していないという証拠を出したまえ」
 「悪魔の証明と立証責任の転嫁をごちゃまぜにした主張ではない」

 わが人生、デマ叩きの他に秀でた技はない。
 批判的思考というものがあることを知って、客観的な事実を重視する論者として振舞って、はや二十年が過ぎた。
 【意訳、終わり】
 このようなことを呉偉業は丘の上でくちずさんでいる。

ネタのお言葉『disの学を断てば憂いのネット人生なし』

 この言葉は、老子の「学を断てば憂なし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 「技巧の罵倒芸こそ最強だ」という考え方も一理ありますが、
 「よしここで論点ずらしだ」「よし人格攻撃だ」「それ後釣り宣言のタイミングだ」「ドヤ顔を決めて退場だ」
 なとど、逐一に作戦を立てて罵倒芸を実行していると、しだいに多彩な技を出すことばかりに神経を集中するようになり、ついには、
 「あれれ、私はいったい何を目的としてdisっていたのでしょうか?」
 となって、自分でも訳が分からなくなって頭を抱えます。

 そのようなときは、罵倒芸を一時的に中止した生活を送りましょう。
 そうして過ごしていれば、少しずつ当初のdisっていた目的が思考に蘇ってきます。
 例:「そうだ思い出した、先日の私は、『ニセ科学問題については中立の傍観者ですと名乗りながらも、世のニセ科学批判者たちに対するネガティブキャンペーンを盛大に展開している論者』をdisってあげていたのでした」

 ネット上でdisり合いの日々を重ねていると、人によってさまざまなdisり方があることを知り、自分でもいろいろな技を実行したくなりますが、そういうときこそ「あえて簡素で率直なdisのみに終始する」というスタンスを採用してみましょう。いつもと違った境地が見えてきます。
 【意訳、終わり
 このように老子は技巧に頼らない素朴な罵倒芸を薦めていた。

ネタのお言葉『客人のためにニセ科学をとどまること、承知もなく』

 この言葉は、戴叔倫(たいしゅくりん)の「湘南即事」(しょうなんそくじ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ロゴスのみが敷き詰められたモヒカン的なブログを熟読して、思考が疲れた。
 悶絶する前にブラウザを閉じてしばらく休み、軽い内容の記事を望んで改めてネット検索する。

 すると、「検証もしないまま比嘉氏のEM理論に擁護的な記事を日夜ネット上に流しています」というブログを発見した。
 あんまりだと思った私は、「ニセ科学問題に疎い人も読む可能性があるのだから、比嘉氏のEM理論を無批判で紹介しないでほしい」と頼んだ。

 そのブログ主は、「はい承知しませんです、学問の自由です」と返事して、科学的に変な理論をぶち続けた。
 【意訳、終わり
 この出来事に衝撃を受けた戴叔倫は、思考の落ち着きを取り戻すために「湘南即事」を急いで作った。

ネタのお言葉『よく明瞭をもってログを治めずんば、disをいかにせん』

 この言葉は、論語の「能(よ)く礼譲を以(もっ)て国を為(おさ)めずんば、礼を如何(いかに)せん」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。
 「頭にすっと入るようなdisコメントを皆が投稿すれば、ログの流れが素直になって、第三者にも読みやすくなります」

 「独りよがりなdisコメントを皆が投稿すれば、ログの流れがぎこちないものとなって、第三者にも読みにくくなります」

 「そのような無残なログを作り上げてしまっては、せっかくのdisコメント作りに要した時間と労力が無駄になってしまいます」
 【意訳、終わり
 自慢のdisりも、読む人に理解してもらえなければ意味がない。
 「どのようにすれば、万人に伝わるdisができるか?」
 という自問を常に行い、そのうえでdis作りに励む。
 そうして仕上げたdisならば、ほぼすべての読者に伝わるだろう。

 もちろん、
 「脳内に浮かんだdisをダイレクトに文章化すればよいのだ、そのほうが自分にとって楽な作業なのだ」
 という考え方もあるが、その場合は困惑のリアクションを見せる読者ばかりとなるだろう。

 例:『さっきから色々とdisの言葉を並べているけれど、結局あなたは何を主張したいの?』

 主張の中身が理解できなければ、賛否を表すことができない。
 いつまで経っても支持者が増えない。
 ゆえに、「明瞭で頭にすっと入るdis」の効果は高いといえる。
 このことを、孔子は数千年前に指摘していたのである。

ネタのお言葉『disの師匠に事(つか)うるに數(しばしば)すれば斯(ここ)に破門され、disの友に數すれば斯にブロックされる』

 この言葉は、論語の「君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば斯(ここ)に辱(はずか)しめられ、朋友(ほうゆう)に數すれば斯に疎(うと)んぜらる」の罵倒芸版である。
 【意訳
 子游(しゆう)が言いました。「罵倒芸を教えてくれている師匠的なブロガーに向かって、」
 『そのdis記事はどうなんですか、前フリが濃密なわりに本論がスカスカのdis記事ではありませんか、もっと内容のあるdis記事を書いてくれませんか』
 「という感じのコメントを何度も述べるのはやめましょう」

 「というのも、『うんうん、その意気やよし』と最初は師匠も喜んでくれますが、しだいに不機嫌になって、」
 『やかましいんじゃ、こわっぱ! わしのdisブログに不満があるんじゃったら、よそのdisブログに行けばいいんじゃ!』
 「と怒り出して、アクセス禁止の処分が下されてしまうからです」

 「disの友人に対しても同様に、」
 『君のdisツイートは思いやりが足りないよ、もっと相手の心情に寄り添ったdisツイートを見せるべきだよ』
 「という感じのコメントを何度も行っていると、」
 『あなたこそ思いやりのあるdisツイートを述べてくださいよ、私の心情に寄り添ったdisツイートを見せてくださいよ、あなた自分でも出来ていないことを私に要求しないでくださいよ』
 「と返されて、ブロックされてしまいます」
 【意訳、終わり
 「あの人のdisり方には危うい部分がある、あのままだと読者からの信頼がゼロになってしまう、いまのうちに私から忠告しておこう」と思うのはかまわないが、何度も忠告していると、「くどい人間だ、もう話したくない」と嫌われてしまう。

 それでは元も子もないので、「これこれこの理由により、貴公のdisり方はダメである、ここに代替案を示しておく」という感じで、要点をコンパクトにまとめた諫言を呈して終わりとしよう。
 それがネット上における無難な付き合い方だと子游は提言している。

ネタのお言葉『disを知りて、disを知らずとするは、上』

 この言葉は、老子の「知りて知らずとするは、上」の罵倒芸版である。
 【意訳
 disの知識を豊富に蓄えているベテランの罵倒芸論者は、ネット上のdisり合いの場においては、「右も左も分からないので教えてください」という態度を見せます。
 それを見た他の罵倒芸論者は、「かなりできる御方のようだ、軽い扱いは禁物だ」と思います。

 disの知識に乏しい新人の罵倒芸論者は、自信の無さの裏返しとして、自分を大きく見せようとして頑張って、思いつくかぎりの罵詈雑言を片っ端から述べます。
 それを見た他の罵倒芸論者は、「空回りしているな」と思います。

 ベテランの罵倒芸論者は、「この私は、宇宙にある数多のdisの、ほんの一部しか知らない」と悟っています。
 新しいdisの言葉を知れば知るほど、disの世界の奥深さに驚嘆し、「自分はまだ入り口に立っているにすぎない」と客観できます。

 その反対に、「僕が一番、disを上手く、操れるんだ……」とガンダムのアムロ風につぶやく罵倒芸の論者は、まだまだ自分自身を知りきれていないということです。
 【意訳、終わり
 このほかにも老子は、「あえて勇の毒吐きを実行すれば、すなわち皆の雰囲気が滅する、あえて毒吐きをせざるに勇なれば、すなわち皆の雰囲気が活きる」と言っている。
 「私が披露するdisは良いdisだ、諸君が披露するdisはダメなdisだ」という考えでネット上を歩くと、行く先々で摩擦が発生して、論敵も自分も疲れる。
 「私のdisはたいしたことありません、どうぞ存分に吟味してくだい」という態度を見せれば、論敵たちは感心して対等に扱ってくれて、和やかなdisり合いが実現する。
 このような「活きた罵倒芸」を目指すべきと老子は言っている。