ネタのお言葉『繁苔(はんたい)、ブログ跡を覆う』

 この言葉は、儲光羲(ちょこうぎ)の『関山月』(かんざんげつ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 一つのニセ科学擁護ブログが、連綿と炎上していた。
 ブログ主が逆切れして運営を放棄したあとは、少しずつ静かになっていった。

 いまではブログ跡に苔がびっしりと生えており、過去記事は一つも見えない。

 あれほど一丸となって批判していた人々は、どこへ行ったのだろうか。

 ニセ科学と違う分野で炎上しているログ、たとえば、政治経済について主観を根拠にした説をぶって得意顔を決めている論者のログに移ったのだろうか。

 その論者も逆切れして、自らのアカウントを消したりしているのだろうか。

 あるいは、 
 「ふう~、やれやれ、哀れな一般市民たちですよね」
 「私の主観データに基づく斬新な説を、理解できないとはね!」
 と批判者たちを見下して、更なる反感をもらっているのだろうか。

 そんなことを徹夜で考えながらうつらうつら画面を見ていると、苔に覆われたブログ跡から突然、
 「まだ負けていない!」
 「僕自身が負けたと思うまでは、まだ議論に負けていないんだ!」
 「超人メタルダーの真似じゃないぞ!」
 という謎の声が聞こえてきた。
 【意訳、おわり
 そのような怪異があったと儲光羲は関山のふもとで記している。

ネタのお言葉『冷水のブログになっても愚痴らず、炎上のブログになっても焦らず』

 この言葉は、荘子の「水に入れども濡れず、火に入れども熱せず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 真の罵倒芸を探究する論者は、自分のブログが長いあいだ過疎であっても、なに一つ不満を述べません。
 多くの読者から批判のコメントが寄せられたときも、あざ笑ったり、逆切れしたり、他人に責任を転嫁したりしません。

 世間に広く知られる有名ブロガーとなっても、舞い上がったり、調子に乗ったり、傲慢な物言いをしたりしません。
 世間から忘れ去られて再び過疎ブロガーに戻っても、絶望して引退を表明したりしません。

 いかなるときもフラットな態度を見せる、それが真の罵倒芸を探究する者の姿です。
 【意訳、終わり
 disブログを運営していると、読者の数が大幅に増えたりゼロになったり、賞賛の声をもらったり非難を浴びたりする。
 そんな日々にいちいち喜んだり悲しんだりしていると、疲れがものすごく溜まって倒れてしまう。
 どのような状況に置かれようとも、冷静な気持ちで画面を眺める自分で居よう。
 それが無意識にできるようになったならば、まず罵倒芸を長くネット上で披露できるだろう。
 そのように荘子は助言している。

ネタのお言葉『穏健派の罵倒芸論者は穏当なdisに安んじ、知性派の罵倒芸論者は穏当なdisを利とす』

 この言葉は、論語の「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「自分が一人勝ちさえすれば良いと考える罵倒芸の論者は、支持者が少ない状況になると愚痴ばかりを述べはじめます」
 「多くの批判を一身に受ける状況になっても、逆切れして騒動を大きくするばかりで、とてものんびりしたネット人生を送ることができません」

 「穏健なdisのみを公開すると決めている罵倒芸の論者は、心の落ち着いたネット人生を長く送ることができます」
 「知恵のある罵倒芸の論者は、むやみやたらに毒吐きすることの不利を理解しており、遠まわしでふんわりとしたdisに留めておきます」
 【意訳、終わり
 トゲトゲしたdisを公開してばかりでは読者が飽きて去ってしまう。適度にトゲを抜いたdisならば、読者が安心して支持を表明できる。
 それを見た他の罵倒芸論者たちも、ウォームハートなdisを述べ始める。結果、ほのぼのとしたdisログが作られる。
 この流れを目指しなさいと孔子はアドバイスしている。

ネタのお言葉『玄人の罵倒芸論者は省を思い、素人の罵倒芸論者は量を思う。玄人の罵倒芸論者は律を思い、素人の罵倒芸論者は烈を思う』

 この言葉は、論語の「君子徳を懐(おも)えば、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵(けい)を懐う」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で数々のdisり合いを経験したベテランの罵倒芸論者は、「いかに短縮したdisのコメントを作るか」という部分に神経を集中します。
 デビューしたばかりで経験が浅い罵倒芸の論者は、「いかに多くの悪罵で画面を占めるか」という部分にこだわります。
 
 ベテランの罵倒芸論者は、邪念の抑制された厳かなdisり合いの雰囲気を作ることに気を配ります。
 新人の罵倒芸論者は、自分の実力不足をごまかそうとして、荒れに荒れて混沌としたdisり合いの雰囲気を作ることに一生懸命となります。
 【意訳、終わり
 論者の芸風は人それぞれであるが、
 「脳内に浮かんだ数多の罵詈雑言を次々と文章化してネット上に投稿する」
 という芸風は、尋常でない疲れが溜まって体によくない。
 脳の働きも鈍り、それまでの雑言がマシだったと思うほどの酷い論理の文を作ってしまう。

 酷い論理の例:「反論者たちは疲れて議論を中止して退場したよ? よって僕の主張に誤りは一つも含まれていなかったという理屈になるよ? 僕の一人勝ちだね!」

 この体たらく、いままで支持してくれていた読者たちも流石にあきれて離れてしまう。
 その後は閑古鳥の鳴き声がログに響く。「カッコー、カッコー」
 キジバトの鳴き声が聞こえてくるほどの過疎ログになる。「ホーホ、ホッホホー。ホーホ、ホッホホー」
 アオバトの姿もはっきり見えるほどにスカスカなログの空間となる。「ホー、ホワオー、ホワオー、ホワー」

 その事態を避けるためにも、「簡素なdisで早めに議論を終わらせて、あまった時間で他の作業に従事する」という芸風を選択するのが賢明といえる。

ネタのお言葉『小ログと小支持を恥じる者は、いまだ共に真のdisを語るに足らず』

 この言葉は、論語の「悪衣悪食(あくいあくしょく)を恥ずる者は、未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「どこまでも真の罵倒芸を探究しますと宣言しておきながらも、自分のブログのアクセス数の少なさを嘆いたり、読者たちが一向に賛同を表明してくれないと愚痴ったりするブロガーは、真の罵倒芸を一緒に語れるような間柄にはとてもなれません」
 【意訳、終わり
 真の罵倒芸を会得したいと思うのならば、自分の現状に不満があっても沈黙を保ってdisの研鑽に日々努める、それこそが名罵倒芸ブロガーへの近道になると孔子は言っている。

ネタのお言葉『孤高のニセ科学批判ブログを閲覧す、はじめあっぱれ、のちdisの雨』

 この言葉は、蘇軾(そしょく)の「飲湖上初晴後雨二首 其二」(こじょうにいんす、はじめはれ、のちあめ、にしゅそのに)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 あるネット上の片隅に、推敲のよく洗練されたニセ科学批判ブログを発見した私は、明瞭な自己主張の数々に晴れ晴れな読後感を覚えた。

 誤謬が散々に表示されている科学素人のサイトに啓蒙を試みている記事は、相手の反発を生んでdisの応酬となっているが、これも趣があってよい。

 正論を採ってニセ科学の抑止に日々を捧げんとするブログ主の気合を鑑みれば、多少の短気も瑣末なことと請合うがよろしい。
 【意訳
 そのようなブログを西湖の上で晴れの日も雨の日も読んでいたと蘇軾は術懐している。
 なお、のちに同じブログを閲覧した松尾芭蕉は、「今朝方も、ムラビトとモヒカン、disの花」という句を作っている。