この言葉は、老子の「知りて知らずとするは、上」の罵倒芸版である。
【意訳】
disの知識を豊富に蓄えているベテランの罵倒芸論者は、ネット上のdisり合いの場においては、「右も左も分からないので教えてください」という態度を見せます。
それを見た他の罵倒芸論者は、「かなりできる御方のようだ、軽い扱いは禁物だ」と思います。
disの知識に乏しい新人の罵倒芸論者は、自信の無さの裏返しとして、自分を大きく見せようとして頑張って、思いつくかぎりの罵詈雑言を片っ端から述べます。
それを見た他の罵倒芸論者は、「空回りしているな」と思います。
ベテランの罵倒芸論者は、「この私は、宇宙にある数多のdisの、ほんの一部しか知らない」と悟っています。
新しいdisの言葉を知れば知るほど、disの世界の奥深さに驚嘆し、「自分はまだ入り口に立っているにすぎない」と客観できます。
その反対に、「僕が一番、disを上手く、操れるんだ……」とガンダムのアムロ風につぶやく罵倒芸の論者は、まだまだ自分自身を知りきれていないということです。
【意訳、終わり】
このほかにも老子は、「あえて勇の毒吐きを実行すれば、すなわち皆の雰囲気が滅する、あえて毒吐きをせざるに勇なれば、すなわち皆の雰囲気が活きる」と言っている。
「私が披露するdisは良いdisだ、諸君が披露するdisはダメなdisだ」という考えでネット上を歩くと、行く先々で摩擦が発生して、論敵も自分も疲れる。
「私のdisはたいしたことありません、どうぞ存分に吟味してくだい」という態度を見せれば、論敵たちは感心して対等に扱ってくれて、和やかなdisり合いが実現する。
このような「活きた罵倒芸」を目指すべきと老子は言っている。