この言葉は、論語の「其(こ)の身正しければ、令(れい)せざれども行わる 」の罵倒芸版である。
【意訳】
孔子が言いました。「自ブログで正論のdisを日々公開していれば、声高に指図しなくても、読者たちは正しいdisを述べる自分でありたいと思うようになります」
「自ブログで筋の悪いdisばかりを公開していたならば、たとえ遠慮がちに指図しても読者たちは、『あなたに私の罵倒芸のことをあれこれ言われたくありません』と言い残して去ります」
【意訳、終わり】
ネット上のあちらこちらでは、直接に面識の無い人々が意見をぶつけ合い、「今の君は間違っているよ、これこれこのようにすべきだよ」「それは我輩の台詞である、貴公こそ言動を改めて我輩に習いたまえ」という感じで、指図もぶつけ合っている。
そして聴衆は、理路整然としたdisを述べている論者に魅力を感じ、「自分もあの御方のレベルになろう」と思い立ち、真の罵倒芸を探究するようになる。
一方で、人格攻撃、論点のすり替え、後釣り宣言、あと知恵バイアスに基づく評論、これらをドヤ顔で実行している論者に対しては、
「今すぐに議論の場から出て行け」「植物園に行ってホオズキの花言葉でも暗唱していろ」といった感じで、聴衆は嫌悪を示す。
これは、ニセ科学批判批判の活動にも言えることである。
常日頃から正しいニセ科学批判批判のコメントを公開している論者ならば、一度くらい上からの目線で説教しても、読者たちは素直に聞き入れてくれる。
反対に、私怨的なニセ科学批判批判のコメントを乱造している論者は、一度でも上からの目線で説教しようものならば、たちまち四方八方から叩かれてズタボロの姿を晒す。
今の私の場合、「いかなるお題の議論でも常に正しいdisを公開できる自分」にまったく達していない状態であるが、そのような自分で在りたいという思いを忘れずに持っておきたい。
「もしも穏健派のニセ科学批判者が、老子の『正言は反のごとし』という言葉の意味を間違って覚えていたら」と考えました
「正しい科学の啓蒙は反科学のごとし」
「ニセ科学的な説を信じている人にとっては、ニセ科学批判者の言い分こそ怪しく思えるわけであり、非合理な話を聞かされているようでうんざりするのです」
「これを踏まえつつ、ニセ科学擁護者の心情に寄り添いながら優しく遠まわしのダメ出しを実行すれば、反感を持たれて物別れに終わる事態も少なくなり、」
「それどころか、『ネット上で一番に頼れるニセ科学批判者だ、弟子にしてください』という言葉がもらえる日の到来も、ぐっと近くなります……という意味」
「ニセ科学的な説を信じている人にとっては、ニセ科学批判者の言い分こそ怪しく思えるわけであり、非合理な話を聞かされているようでうんざりするのです」
「これを踏まえつつ、ニセ科学擁護者の心情に寄り添いながら優しく遠まわしのダメ出しを実行すれば、反感を持たれて物別れに終わる事態も少なくなり、」
「それどころか、『ネット上で一番に頼れるニセ科学批判者だ、弟子にしてください』という言葉がもらえる日の到来も、ぐっと近くなります……という意味」