ネタのお言葉『君子的なdisの探究者もとより窮す、そうでない者窮すれば斯こに濫る』

 この言葉は、論語の「君子固(もと)より窮(きゅう)す、小人窮すれば斯(こ)こに濫(みだ)る」の罵倒芸版である。
 【意訳
 陳という国を通りかかったところで、孔子の一行は食料が尽きました。皆が所持しているスマートフォンの電池残量も、0となりました。
 他の旅行者たちは、持っている食料を頭の上に掲げて、「インスタ映えする~」と言いながらスマートフォンで写真を好きなだけ撮っていました。

 状況の落差に耐え切れず、子路(しろ)がプチ切れして孔子に問いました。「君子的な罵倒芸を真摯に探究している論者でも、みじめな思いをすることがありますか!?」
 孔子は答えました。「もちろん、あります」
 「しかしながら、君子的な罵倒芸を探究している論者は、一歩も動けないほど腹がすいていたり、所持しているスマートフォンがただの板と化したときでも、プチ切れの態度を表立って見せたりしません」
 「そこが、つまらない罵倒芸で満足している論者との違いです」

 それを聞いた子路は、「私はつまらない態度を見せてしまった、皆が飢えとスマートフォンの電池切れで困っているときに、私は無駄に大声を出して皆をさらにうんざりさせてしまった」と反省しました。
 【意訳、終わり
 私の場合、「そのような状況でプチ切れを表す自分は居ない」と言い切れないために、今から脳内でシミュレーションを繰り返し行い、現実で起きた際に涼しい顔でやり過ごせる自分を作っておきたい。

ネタのお言葉『disブログの理における芸や、冷水の芸や炎上の芸よりも甚だし』

 この言葉は、論語の「民の仁に於(お)けるや、水火よりも甚(はなは)だし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「disブログを運営している論者の場合、他人に冷や水を浴びせるような罵倒芸や、他人の神経を逆撫でして炎上を起こさせる罵倒芸よりも、主張の理路がシュっとした罵倒芸を公開しましょう」

 「他人に冷や水を浴びせるような記事や、他人の神経を逆撫でして炎上を起こさせる記事を公開したことで、たちまちブログの閉鎖に追い込まれた罵倒芸の論者を私は何人も見てきましたが、」
 「主張の理路がシュっとしたdis記事を公開して即座のブログ閉鎖に追い込まれた罵倒芸の論者は、数十年にわたる過去のネット観察において私は一人も見たことがありません」
 【意訳、終わり
 私の場合、「disの文章そのものを作るだけでも苦労するのに、論理性まで考慮せねばならないとは大変だ」と思ってしまうわけであるが、話の筋が通った罵倒芸を優先して公開しなければ、私のブログの信頼度の数値がみるみる0になることも事実である。

 難題ではあるが、毒吐きの成分と論理性を上手くミックスしたdis記事の作成に努めたい。

ネタのお言葉『disの辞は達するのみ』

 この言葉は、論語の「辞は達するのみ」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「ネット上のdisり合いで大切なことは、相手に自分の考えをしっかりと伝えることです」
 「それができなければ、相手は賛否を表明してくれるどころか、まともなdisバトルが成立しないと失望して去ってしまうでしょう」
 【意訳、終わり
 ネット上で見知らぬ人の主張にダメ出しする場合、「どの部分の何がどうダメすぎなのか?」という事柄を明瞭に伝えること。
 そうすれば、相手も反省の弁なり怒りの反発なりを明瞭に表すことができる。

 中でも特に、「えっ、今なにか、ダメ出しされましたのアタクシ?」というリアクションは、絶対に起こさせてはいけない。
 言葉足らずのダメ出し、独りよがりのダメ出し、曖昧で抽象的でどうにでも解釈できるダメ出し、これらを思い切って封印しよう。

 「どうすれば、あの知り合いでもない御方に自分のdisい思いを100パーセント分かってもらえるか?」
 と悩みつつ、あれやこれやと試行錯誤してダメ出しの文章を組み立てよう。
 そうして仕上がったダメ出しの文章は、100人中99人の見知らぬ人に伝わる文面となっているだろう。
 (注:ネット上には、ダメ出しの内容をくどいくらい丁寧に説明しても、「あなたの言い分は私の主張を補強してくれています、おかげさまで私の主張の正しさが改めて確認できました(^^)v」と曲解して受けとめる人が居るために、100人中100人の見知らぬ人に伝わるダメ出しは不可能である)

 私の場合、「自分の溜飲を下げることが第一だ、相手に伝わることなんて二の次だ」という言葉が思考回路の真ん中に組み込まれているために、人一倍に気をつけてダメ出しの文章を作りたい。

ネタのお言葉『斜めの言を放って炎上明らかなり』

 この言葉は、韋荘(いそう)の詩「春早」のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ある朝に、モヒカン的な読者から自ブログ内にある科学的な間違いを指摘された私は、初めて科学リテラシーというものに興味を持った。
 そこで自ブログを一旦閉じて、ネット上で見つけた科学に関するサイト群を片っ端から読み込んで、科学知識を蓄えた。

 昼になって、「私はいったい、過去にどれほどの月日を科学的な無明で過ごしてきたのか」と呟きながら自ブログを再開した。
 ちょうどそのとき、隣のブロガーがニセ科学批判批判の記事を公開した。一瞥した私は、
 「ブロガーの言い分は斜め上の度合いが過ぎており、ネット上で活動している全てのニセ科学批判者たちからツッコミをもらうであろう」と未来予知した。
 
 夕方にはその通りになったので、「これが科学リテラシーの効能か」と私は驚いたのであった。
 【意訳、終わり
 そのような春の一日があったと韋荘は記している。

ネタのお言葉『disの益者三敵、disの損者三敵』

 この言葉は、論語の「益者三友、損者三友」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「ネット上の罵倒芸においては、3タイプの良き論敵が居ます。そして、3タイプの悪い論敵が居ます」
 「他人の主張の間違っている部分をストレートにdisる論敵、嘘のdisを一文字も述べない論敵、柔軟なdisり方を見せてくれる論敵、これらの者とdisり合うことは有益です」

 「実力もないのに大言壮語ばかりを述べる論敵、曖昧な言葉を多用して本音を絶対に明かさない論敵、自分は常に正しくて他人は常に間違っていると決めつける論敵、これらの者とdisり合うことは損しかありません」
 【意訳、終わり
 率直なダメ出しをする人、いつわりのないダメ出しをする人、相手の心情を量りながら臨機応変にdisの強弱を変える人、このようなタイプの人たちとdisり合うことにより、自分の罵倒芸がみるみる成長する。
 「そんな論敵、私の観測範囲には一人も居ませんが……」という御方の場合は、自分がその立場になって他の罵倒芸論者を成長させてあげよう。

 ちなみに私は悪いタイプに近い状態なので、自分自身を反面教師として成長を図りたい。

ネタのお言葉『困(くるし)みて真のdisを学ばざる、論者これを下と為す』

 この言葉は、論語の「困(くるし)みて学ばざる、民斯(こ)れを下と為す」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「ネット上にデビューしたばかりで既に真の罵倒芸を悟っている論者は、最も評価が高いです」
 「ネット上で経験を積んでから真の罵倒芸を悟った論者は、次に評価が高いです」
 「真の罵倒芸を学んでいる途中の論者は、ほどほどに評価が高いです」
 「真の罵倒芸を学ぶどころか、探究に努力しているというポーズすら見せない論者は、最低の評価です」
 【意訳、終わり
 私の場合、真の罵倒芸を探究したいという考え自体は持っているので、ギリギリセーフという評価になろうか。
 ちなみに、「疫学の教科書をほぼ読まない状態で疫学の玄人たちに論戦を挑み、返り討ちに遭ったうえで後釣り宣言してドヤ顔を決める」という芸は、聴衆から総ツッコミしてもらえる可能性が高い芸なので、これも平行して探究するしだいである。

ネタのお言葉『君子のdisを求む者に三畏あり』

 この言葉は、論語の「君子に三畏(さんい)あり」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「君子的な罵倒芸を探究している人は、次の三つのものを畏(おそ)れます」
 「一つ目は、ネット上のdisり合いを天から見守っている空飛ぶスパゲッティ・モンスター」
 「二つ目は、数十年にわたってネット上でdisり合いを行って、経験値がかなり溜まっているベテランの罵倒芸論者」
 「三つ目は、もはや色々と悟っているために、滅多なことでは他所のdisり合いに参加しない隠者的な罵倒芸の論者」

 「つまらない罵倒芸で満足している人は、これら三つのものの実力を正確に把握することができないために、自分のほうが格上だと思い込み、余裕の態度で論戦を挑んで返り討ちに遭い、聴衆から失笑されます」
 【意訳、終わり
 私の場合、「疫学の知識がほぼゼロの状態で疫学の玄人たちに論戦を挑み、返り討ちに遭ったうえで後釣り宣言する」という芸を身に着けたいと思っていたのだが、「それはつまらない芸である」と孔子が評していたのを知った今、断念すべきかどうか迷っている。

 なにしろ、「疫学の素人は最強だ、自分にとって都合の良い論を好き放題に述べることができる気楽な立場だ、確証バイアスを駆使して議論の勝ちを狙うスタイルってカッコイイよね」という考えから、なかなか抜け出せないのである。

 ゆえに、孔子の言葉は思考の引き出しの奥にしまっておき、もうしばらく疫学の素人の立場を維持する所存である。
 (注:「なにを言っていますの?」と思った読者様は、私と違う芸風を模索したほうが無難である)

ネタのお言葉『好んであと知恵バイアス的な評を行う、難いかな』

 この言葉は、論語の「好んで小慧(しょうけい)を行う、難(かた)いかな」の罵倒芸版である。
 【意訳
 あるdisログを閲覧したあとで孔子が言いました。「多くの論者たちがコメントを投稿していますが、真の罵倒芸を語る者は一人として居ません」
 「そのかわり、他所で起きた炎上騒動については、」
 『当事者たちの対処はダメすぎだ、賢い僕ならば、もっと上手く解決できた』
 『当事者たちはリスクマネージメントがダメすぎである、賢い我輩ならば、騒動の発生を予め防ぐことができたのである』
 『あんなことをすれば大問題になるって傍観者の私でも分かることなんですがねえ、当事者たちは知恵がまわらない人たちばかりだったんですねえ』

 「などと述べて、あと出しじゃんけん的な評論を皆で競っている有り様です」
 「もはや手の施しようがありません」
 【意訳、終わり
 私の場合、「他所で起きた騒動をしばらく傍観し、一段落した時に『あと知恵バイアス的な評論』を公開してドヤ顔を決める」という芸に興味があり、「道草クー太郎」氏のツイートや「しわ枯れパパ」氏のツイートを時々ちらっと見て参考にしていたのだが、孔子が「それはレベルが低すぎて救いようがない芸」と断じていたのを知った今、ちょっと困っている。

 「そんなの知りません、普通に『あと知恵バイアス的な評論』を公開して、普通にドヤ顔を決めるというネット人生を送ります」という考えも有りだが、これを機に別の芸風を模索してみるのも有りである。
 そうすれば、遠い未来に「あの時の路線変更の決断こそ、世界的な罵倒芸論者への第一歩であった」と振り返る自分が居るかもしれない。

ネタのお言葉『ネットモカンの精鋭たちよ、逃げ去り道の無きまでにデマを破ることなかれ』

 この言葉は、鄭谷(ていこく)の詩「曲江春草」のニセ科学批判批判版である。
 【意訳
 語るに落ちるニセ科学を肯定してドヤ顔を決めているブログに、炎上の煙が漂っている。
 アドホックな理屈で装飾した言い訳を、気が遠くなるほど書き連ねて、被せのドヤ顔を決めるブログ主。

 すでに穏健派のニセ科学批判者たちは見切りをつけて去り、かわりにモヒカン的な思考の人たちが現れて、ハイエナジーな姿を披露している。
 「ヒャッハッハ、EM菌を擁護する記事だあ!」
 「化学物質過敏症を擁護した記事もあるぜー!」
 「おい見ろよ、あのブログ主、マイナスイオンの擁護までしているぜ?」
 「やれやれ、今じゃssfs21th氏以外の私怨的なニセ科学批判批判者たちですら、マイナスイオンには言葉を濁すってのによ!」

 デマの拡散を許さない気持ちは分かるし、労力を惜しまずに対抗言論を掲げてくれる有りがたい存在のネットモヒカンたちではあるが、
 どうか完全に退路を断つような真似はせず、なにかしらの逃げ道を残してあげてほしい。

 そうすれば、見知らぬ他人から遠慮のない修正をもらって激怒していたブログ主も、少しずつ冷静を取り戻し、
 批判された意味を理解し、自分のニセ科学的な記事群を自分でdisりながら一つずつ消していく可能性も、ゼロではないのだから。
 【意訳、終わり
 そのような詩を鄭谷は曲江のほとりで作っている。

ネタのお言葉『そもそもを見定めたあとのdisは、これ賢の罵倒芸か』

 この言葉は、論語の「抑々(そもそも)亦(また)先(ま)ず覚る者は、是(これ)賢か」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「他人が発したdisに裏の意図があるかもしれないなどと、疑ったりしないことです」
 「自分が発したdisに他人から信憑性を疑われているかもしれないなどと、心配しないことです」
 「ネット上の他所で発生した騒動にも直ちに飛びつかず、全体像を把握したうえで毒吐きの評論を放ってあげましょう」
 「これが自然にできるようであれば、まず賢者の罵倒芸といえるでしょう」
 【意訳、終わり】 
 他人が公開したdisコメントを読む際は、変な解釈をしないで書いてある文面の通りに受けとめる。
 自分が仕上げたdisコメントは、「趣旨がちゃんと読者に伝わるだろうか」などと悩まず、自信を持って公開する。

 罵詈雑言の応酬でリソースを無駄に消費しているログを見つけたときは、「そもそもの論点はなんでしたの?」と言ってログを通読し、論点を理解し、「それ以上の脱線は許しませんわ」とログに居る皆を叱りつけて本論に戻してあげる。
 これが賢い罵倒芸の有りようであり、いついかなる状況でも無意識に実行できるのが理想と孔子は指摘していたのである。

 賢者の罵倒芸どころか隠者の罵倒芸すら悟っていない今の私であるが、無意識といわずも意図して動いて結果を残す論者のレベルくらいには辿り着きたい。