ネタのお言葉『好んであと知恵バイアス的な評を行う、難いかな』

 この言葉は、論語の「好んで小慧(しょうけい)を行う、難(かた)いかな」の罵倒芸版である。
 【意訳
 あるdisログを閲覧したあとで孔子が言いました。
 「多くの論者たちがコメントを投稿していますが、真の罵倒芸を語る者は一人として居ません」
 「そのかわり、他所で起きた炎上騒動については、」

 A氏『当事者たちの対処はダメすぎだ、賢い僕ならば、もっと上手く解決できた』

 B氏『当事者たちはリスクマネージメントがダメすぎである、賢い我輩ならば、騒動の発生を予め防ぐことができたのである』

 C氏『あんなことをすれば大問題になるって傍観者の私でも分かることなんですがねえ、当事者たちは知恵がまわらない人たちばかりだったんですねえ』

 「などと述べて、あと出しじゃんけん的な評論を皆で競っている有り様です」
 「もはや、手の施しようがありません」
 【意訳、終わり
 私の場合、
 「他所で起きた騒動をしばらく傍観し、一段落した時に『あと知恵バイアス的な評論』を公開してドヤ顔を決める」
 という芸に興味があり、「道草クー太郎」氏のツイートや「しわ枯れパパ」氏のツイートを時々ちらっと見て参考にしていた。
 (追記:この記事を書いた2018年の当時は参考にしていたが、2020年5月2日の時点では参考にしていない)
 (なにしろ、かなりコツを掴んだ気がしている自分が居るために、「道草クー太郎」氏のツイートや「しわ枯れパパ」氏のツイートを読むモチベーションが無くなったのだ)

 しかし孔子が、
 「あと知恵バイアス的な評論は、レベルが低すぎて救いようがない芸」
 と断じていたのを知った今、ちょっと困っている。

 「そんなの知りません、普通に『あと知恵バイアス的な評論』を公開して、普通にドヤ顔を決めるというネット人生を送ります」
 というスタンスもけっこうだが、これを機に別の芸風を模索してみるのも有りである。

 そうすれば遠い未来に、
 「あの時の路線変更の決断こそ、世界的な罵倒芸論者への第一歩であった
 と振り返る自分が居るかもしれない。