ネタのお言葉『モヒカン的論者に会って、ニセ科学的思考を忘するによって、また真のリテラシーを得たり』

 この言葉は、李渉の詩「題鶴林寺」(かくりんじにだいす)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 これまでの私は、あるひとつのニセ科学的なサイトを夢中になって読むという日々を過ごしてきた。

 しかし最近は、「なんとなくオワコンのような?」という疑念が強くなり、そのニセ科学的なサイトの管理人に向かって次のコメントを送った。
 「あまりに都合が良すぎる主張に思えますが、私は鵜呑みに信じて大丈夫でしょうか。というか、少し話を盛っていませんか?」

 たちまち管理人からキレ芸が返ってきたので、「これはどういうことだ、私は素朴な思いを述べただけなのに」と落胆し、ブラウザを閉じた。

 その後、「たしか、ニセ科学に批判的なサイトもあったような? 一応、訪ねてみようか」という思いが頭をよぎり、モヒカン的論者が運営するサイトを探し出し、質問のコメントを送った。

 まもなく回答をもらい、読み終えた私は、「なんの感情論もない、事実のみを淡々と記述した文章だ、こんなそっけないコメントをもらったのは初めてだ」と驚きながらも、やり取りを続けた。

 そうして過ごしていたある日、「私の思考の真ん中にあったニセ科学的な回路が、隅っこに追いやられている? な、なんだ、この新たなアンテナ感覚は?」という状態となり、モヒカン的論者がいうに、「それが科学リテラシーというものだ」

 このようにして私は、「あの説はニセ科学だ、その説はまともな科学だ、この説は判断材料が少ないので、結論を保留だ」という観察眼を得ることができた。
 【意訳、終わり
 そのような出来事があったと李渉は鶴林寺で報告している。