ネタのお言葉『曰く、真のdisを教えん』

 この言葉は、論語の「曰(いわ)く、これを教えん」の罵倒芸版である。
 【意訳
 炎上芸を専門とするブログを孔子が訪れて感想を述べました。「読者の数が多いようですね」
 冉有(ぜんゆう)が問いました。「読者の数が多い炎上芸ブログでは、先生はどのようなコメントをなさいますか?」
 孔子が答えました。「disの仕方に豊富なバリエーションがあることをコメントするでしょう」

 冉有が再び問いました。「読者たちにdisり方の豊富さを示したあとで、何かすることはありますか?」
 孔子が答えました。「真の罵倒芸に導くでしょう」
 【意訳、終わり
 そのときに孔子が訪れたブログの管理人は、「多くの人々の神経を逆撫でするような記事を量産し、毎日のように炎上騒動を起こし、自分の名を世間に広く浸透させ、ついでにアフィリエイトの収入をゲット」というスタンスを採用していたが、
 「主張の中身はともかく、しっかりと炎上させて、きっちりと銭を稼いでいるのだから、偉いブロガーに違いない」という感じで愛読者たちは固い支持を表明していたために、数十年にわたって人気を保っていた。

 それを知った孔子は、直接に炎上芸を批判するのではなく、「これこれこのようなdisり方が他にもありますよ」と言って炎上芸以外の選択肢を教えてあげ、高みの罵倒芸を探究するための動機を授けようと試みたのである。

 「炎上芸は初歩的な芸であり、それで満足しているようではレベルの低い論者のままでネット人生を終えてしまう、これは虚しいリソースの使い方であり、改善しなければいけない」と孔子は考えていたのである。

 私の場合、「他所でなにかしら騒動が起きてしばらく時が経ったあと、『あと知恵バイアス』的な評論を一人で語って四方八方にドヤ顔を決めて締めくくる」という芸に関心はあっても、炎上芸に対しては今ひとつピンと来ない。

 孔子が炎上芸を幼稚な段階の罵倒芸と看做していたことを知った今、
 「炎上芸を自らの意図で発動させることは絶対にしないぞ!」
 「みんなから同時多発的に批判の言葉をもらって、結果的に炎上となってしまう場合は、あるかもしれん!」
 と表明しておく。

ネタのお言葉『君子のdisは和して同せず』

 この言葉は、論語の「君子は和して同ぜず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「君子的な罵倒芸を探究している論者は、ほかの罵倒芸論者たちとdisり合いを行うときは、相互理解を第一と考えて相手の心情に寄り添ったコメントを公開しますが、その後に開かれる反省会においては、威厳あるコメントを述べて馴れ合いを防ぎます」

 「つまらない罵倒芸で満足している論者は、よそのdisり合いに参加した際は、人身攻撃をひたすら行いますが、その後の反省会では、」
 『先ほどの人身攻撃は、本心で行ったわけではございません、場の雰囲気に合わせて仕方なく行ったにすぎません』
 『皆さんのことはマジリスペクトしています、皆さんのdisブログやdisツイッターも朝に夕に拝読して学ばさせていただいております』

 「と言って、自分に付けられたマイナスの印象をプラスに変えようと頑張ります」
 【意訳、終わり
 私の場合、君子的な罵倒芸を探究してはいるが、ネット人生が尽きるまでに見つけ出すことができるかどうか、自信がない。
 せめて、「人身攻撃のコメントを公開して批判が殺到した際に、うろたえてあれやこれやと弁解して平謝りするよりも、安楽椅子が後ろに倒れそうなほど深く座って他人事のように涼しい顔を見せて批判を聞き流す」という精神力を身につけたい。

ネタのお言葉『苛烈なニセ科学批判者はこのdisを好み、穏健なニセ科学批判者はこのdisを憎まんには如かざるなり』

 この言葉は、論語の「郷人の善き者はこれを好み、其(こ)の善からざる者はこれを悪(に)くまんには如(し)かざるなり」の罵倒芸版である。
 【意訳
 子貢(しこう)が問いました。「ネット上に居るすべての苛烈なニセ科学批判者たちから褒められるような罵倒芸は、いかががでしょうか」
 孔子が答えました。「その罵倒芸は、まだ十分ではありません」

 子貢が再び問いました。「ネット上に居るすべての穏健なニセ科学批判者たちから窘められるような罵倒芸は、いかががでしょうか」
 孔子が答えました。「その罵倒芸は、まだ十分ではありません」
 「すべての苛烈なニセ科学批判者たちが感涙で応じ、すべての穏健なニセ科学批判者たちが怒号で応じる。それが十分な罵倒芸です」
 【意訳、終わり
 「みんなに賞賛されるdisコメントを作りたい、せめて文句を言われないdisコメントを作りたい」と思うのが通常であるが、現実には何かしらダメ出しをもらうものである。
 どうせ万人に受けないのであれば、聖人君子的なニセ科学批判者すらも一見しただけでスーパーサイヤ人のごとく怒髪天を突くような、ものすごいdisコメントを作ろう。

 「そんなの簡単だ、ひたすら罵詈雑言を書き連ねたコメントを読ませてあげたらいいのだ」と思う御方も居るかもしれないが、聖人君子的なニセ科学批判者はけっこう自制心が強く、普通の罵詈雑言では眉ひとつ動かさず、よくてちらっと微笑みを返してくれるのみである。

 「ならば、一体どういうdisコメントを作ればいいの?」となるわけであるが、残念ながら私も答えが見つからず、藪道を迷いながら歩いているという思考の状態である。
 それほどまでに、聖人君子的なニセ科学批判者から怒りのリアクションを引き出すのは困難な作業なのだ。

ネタのお言葉『スパモンは炎上ログを探して飛びまわり』

 この言葉は、呉均の「山中雑詩」(さんちゅうざっし)の罵倒芸版である。
 【意訳
 仕事の終わり際に、ネットを閲覧する。
 検索中に、背後から触手が伸びてくる。
 すわ、ポケモンのモジャンボかと思いきや、空飛ぶスパゲッティ・モンスターである。

 空飛ぶスパゲッティ・モンスターは、炎上ログを探しているかのように、キョロキョロと目を動かしている。
 そこで私は、ネット上の片隅で見つけた次のサイトを見せてあげる。
 『自分の個人的な観測範囲内にダメなニセ科学批判者が一人居た、ゆえに世のすべてのニセ科学批判者たちは役立たずである、と結論しているサイト』

 空飛ぶスパゲッティ・モンスターは、苦悶の表情を浮かべて、
 「不可解な理なり。水分を吸収しすぎたヌードルのごとくなり」と評し、ものすごいスピードで飛び去った。
 それを見た私は、「空飛ぶスパゲッティ・モンスターは、理をなによりも大事にする神だという噂があるが、本当だった」と感心した。
 【意訳、終わり
 そのような夕方のひと時があったと呉均は報告している。

ネタのお言葉『推敲する間もなくdisコメントを行わんや』

 この言葉は、論語の「聞くままに斯れ行わんや 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 子路(しろ)が問いました。
 「ネット上を歩いていたらニセ科学的なサイトを見つけました、私はコメントの体裁を気にせず、脳内に浮かんだdisを即座に文章化して公開してもよいでしょうか」
 孔子は答えました。
 「すでにネット上には苛烈でベテランのニセ科学批判者が多く活動しています、その者たちのdisり方をすべて観察したあとに、自分のdisり方を決めなさい」

 次に冉有(ぜんゆう)が問いました。
 「ネット上を歩いていたらニセ科学的なサイトを見つけました、私は少々雑な仕上がりでも気にせずに、思いついたdisのコメントをありのまま放ってよいでしょうか」
 孔子は答えました。
 「思いついたdisをありのまま放ってあげなさい」

 傍観していた公西華(こうせいか)が疑問を述べました。
 「子路と冉有は似たような問いを述べましたが、先生は違う答えを示しました、その意図はなんですか」
 孔子は説明しました。
 「子路は、科学的に間違っている主張を憎む気持ちが強すぎるあまり、かえって自身が論理に穴だらけのコメントを公開してしまう危険がありました、ゆえに十分に推敲できるだけの時間を与えてあげました」

 「冉有は、遠まわしでふわあっとしたダメ出しばかりを述べて時間を必要以上に長く使う傾向がありました、ゆえに素早いダメ出しを実行させることで費用対効果の大切さを自覚させてあげました」
 【意訳、終わり
 ニセ科学を推進する側の者たちは、それぞれで異なる理屈を述べており、それぞれ異なる数のカモを獲得している。
 ニセ科学を批判者する側の者たちも、それぞれで異なる芸風を展開しており、それぞれ異なる信頼度を獲得している。

 デビューして間もないニセ科学批判者は、
 「いろんなパラメータがあるのだな、半年ROMれという言葉の意味は、これなのだな」
 と思いながらdisコメントを作ろう。
 そうすれば、より隙の少ないdisコメントが仕上がるために、公開したあとの安心感が高くなる。

 もちろん、
 「そんなの面倒だ、その時その場の気分で好きなようにdisっておけばよいのだ、どうせニセ科学推進者たちは考えを改めないのだから」
 という意見の御方も居られるだろうし、それで済む場合もあるだろう。

 しかしながら、
 「disコメントの作成に費やす気力、費やす時間、公開したときに第三者へ与える印象、長期的な戦略、その他もろもろ、これらを踏まえたうえで行うニセ科学批判が、一番シュっとしている」
 という考え方を、どうか心の引き出しの奥に入れておいてほしい。
 いざという時に潰しが効く。

 【いざという時って?
 たとえば、複数のニセ科学推進者たちから同時に論戦を挑まれたので承知すると、ニセ科学推進者たちは詭弁のコメントを一斉に放ち、自分は一身に受けて倒れてしまったとする。

 そのあとに、どこからともなく謎の応援団が現れて、
 「負けたと思うまで! ニセ科学批判は! 負けない!」
 と超人メタルダー風に歌ってくれて、
 ポケモン的な「ニセ科学批判てだすけ」の技も実行してくれて、
 おかげでHPの数値を回復した自分は立ち上がり、呪文を唱える。
 
 空飛ぶスパゲッティ・モンスターよ
 雲を呼べ 嵐を呼べ いかづちをおろせ
 われに科学リテラシーを授けよ
 disのエクスペリアームス

 そしてニセ科学推進者たちの詭弁をすべて打ち払うことに成功しました……という時である。

ネタのお言葉『ムラビト論者のブログ跡、いまだ冷徹のdisありし』

 この言葉は、 駱賓王(らくひんのう)の詩「易水送別」(えきすいそうべつ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ネットの果てで見つけたブログ跡、それは、他所のサイトで見かけた数多のニセ科学的な説を、愉悦と共に紹介している科学素人のブログ跡であった。
 最後に更新された記事には、ブログ主の思いが書き残されていた。

 「僕はおかんむりだ」
 「原因は、あの忌々しいネットモヒカンたちだ」
 「今日こそは、逆に僕が奴らの拠点に乗り込むのだ」
 「散々に論破して、大いにギャフンと言わせて、ふんぞり返って自ブログに凱旋して、愛読者たちと共に勝利を祝うのだ」

 その記事が公開されて数百年、すでに当人たちは永遠のROM専門と化していて、ニセ科学問題の議論に没頭することもなくなった。
 せめてブログのコメント欄に、モヒカン的な思考の者たちが残した冷たいツッコミ群を認めるのみである。
 【意訳、終わり
 そのようなブログを閲覧したと駱賓王は易水のほとりで記している。

ネタのお言葉『夢に調子の良いdisとなる』

 この言葉は、荘子の「夢に胡蝶となる」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ある新人の罵倒芸論者であるAさんが、睡眠中にありえない夢を見ました。
 世のすべてのニセ科学批判者たちに向かって、シュッとしたdisを放って、一人勝ちを収めて、ニセ科学批判批判者たちに胴上げされるという夢でした。

 その後、目が覚めたAさんは、もっさりしたdisを述べる自分に戻っていました。
 【意訳、終わり

 夢の中で明晰なdisを述べていた自分が、本当の姿か。
 それとも、目が覚めたあとで読者の心にまったく響かないdisを述べている自分が、本当の姿か。
 いや、そんなことに思考を使うのは時間の無駄でしかない。夢の自分も現実の自分も同じく自分であり、同じく事実としよう。

 そのように納得すると、
 「あの論者のdisり方はダメすぎだ、これこれこのようにdisるべきだ」
 と表明することが、いかにも虚しい行為に思えてくる。
 自分がダメすぎと看做す他人のdisり方も、第三者から見ればもの凄いdisり方に見えており、マジリスペクトしているかもしれない。
 
 自分の視点が絶対に正しいと思わず、たまには違う視点に立って他人のdisり方を観察すること。
 すると、普段と違う新鮮な罵倒芸が見えてくる。
 「いろんな角度からのdisり方があるのだなあ」と感心し、ネットの広大さを知る。
 この一連の行動こそ、「多様性を認める」という言葉の具体例なのだ。

ネタのお言葉『炎上芸の知や涯(かぎり)なし』

 この言葉は、荘子の「知や涯りなし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 どんな罵倒芸の論者でも、ネット上の人生で使用できるリソースは有限です。
 それを鑑み、「効率よくdisコメントを公開できると同時に、手っ取り早く有名になれる方法とは何か?」と思案し、「やはり炎上芸だろう」と結論します。
 さっそく炎上芸を実行し、「予想を上回る反響だ!?」と驚き、「この路線で行けば、私はあっという間に地球規模の論者なのだ!」と確信します。

 しかし、すぐに壁にぶつかります。なにしろ読者たちが、
 「あの御方ならば、昨日よりもすごい炎上芸を見せてくれるに違いない」
 「あの御方ならば、明日はもっとすごい炎上芸を見せてくれるに違いない」
 と期待感を膨らますために、自分も全力で答えるべく、休みなく連日で炎上芸を披露します。

 しだいに炎上のネタを考えるのが負担になり始め、無理やりなネタで炎上を起こそうと頑張り、スベってしまって読者たちが離れ、
 「どうすればいい!? どうすれば読者が戻ってくれるんだ!?」と思い悩み、神経を大いに消耗し、ついに倒れ込んでしまいます。
 このように、ネット上における炎上芸はコントロールが難しく、ほとんどの論者が焦げ付いて自滅するのです。
 【意訳、終わり
 炎上芸を長期間にわたって披露したい場合は、
 「悪名でもいいから世間に広く知られたい、そのためにも他人の神経を逆撫でする発言を山ほど公開せねば」
 という考えを捨てて、「筋の通った主張を9割、ちょっとトゲのある言葉を1割」という考えを採用し、プチ炎上を狙うべきである。

 思惑通りにプチ炎上が成功したときは、それ以上の燃えを求めて追加の燃料を投下しないこと。
 閑古鳥が鳴くほど静かになった頃に、再びプチ炎上を起こせばよい。

 連続ではなく、飛び石的にプチ炎上を発生させる。疲れも蓄積しないし、ゆっくりと自分のリソースを消費できる。
 「安らかなネット人生が一番だ」と考えるならば、この方法の一択で決まりである。

ネタのお言葉『このdisり正しければ、令せざれども行わる』

 この言葉は、論語の「其(こ)の身正しければ、令(れい)せざれども行わる 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「自ブログで正論のdisを日々公開していれば、声高に指図しなくても、読者たちは正しいdisを述べる自分でありたいと思うようになります」
 「自ブログで筋の悪いdisばかりを公開していたならば、たとえ遠慮がちに指図しても読者たちは、『あなたに私の罵倒芸のことをあれこれ言われたくありません』と言い残して去ります」
 【意訳、終わり
 ネット上のあちらこちらでは、直接に面識の無い人々が意見をぶつけ合い、「今の君は間違っているよ、これこれこのようにすべきだよ」「それは我輩の台詞である、貴公こそ言動を改めて我輩に習いたまえ」という感じで、指図もぶつけ合っている。

 そして聴衆は、理路整然としたdisを述べている論者に魅力を感じ、「自分もあの御方のレベルになろう」と思い立ち、真の罵倒芸を探究するようになる。
 一方で、人格攻撃、論点のすり替え、後釣り宣言、あと知恵バイアスに基づく評論、これらをドヤ顔で実行している論者に対しては、
 「今すぐに議論の場から出て行け」「植物園に行ってホオズキの花言葉でも暗唱していろ」といった感じで、聴衆は嫌悪を示す。

 これは、ニセ科学批判批判の活動にも言えることである。
 常日頃から正しいニセ科学批判批判のコメントを公開している論者ならば、一度くらい上からの目線で説教しても、読者たちは素直に聞き入れてくれる。
 反対に、私怨的なニセ科学批判批判のコメントを乱造している論者は、一度でも上からの目線で説教しようものならば、たちまち四方八方から叩かれてズタボロの姿を晒す。

 今の私の場合、「いかなるお題の議論でも常に正しいdisを公開できる自分」にまったく達していない状態であるが、そのような自分で在りたいという思いを忘れずに持っておきたい。

ネタのお言葉『スパモンのヌードル網恢恢、疎にして良いdisを見逃さず』

 この言葉は、老子の「天網恢恢、疎にして失わず」(てんもうかいかい、そにしてうしなわず)の罵倒芸版である。
 【意訳
 自分の知名度を手っ取り早く上げたいと考える新人の論者は、あれやこれやと評論を積極的に展開しますが、
 「なんだか、読者たちの反応がいまひとつだな? 芸風を変えようかな?」
 と思い、普通の評論をやめて、少しずつトゲのある評論に移行し、やがて炎上芸のみを実行するようになります。

 炎上芸ならば、推敲の作業を省いたコメントを好きなだけ公開できます。
 読者たちの反応も抜群ですから、一石二鳥のお得な芸です。
 このような次第で、ネット上には炎上芸の論者たちばかりが目立つようになります。

 一方で、真の罵倒芸を探求している論者は、地味にdisの研究に勤しみます。
 閑古鳥の鳴き声が聞こえるだけの日々を、数十年も過ごします。
 ついには、「このまま私は誰にも注目されず、一人寂しくネット上から消え去る身なのだ」と悲観します。

 しかし、そこまで気分が落ち込んだ日の翌朝、見知らぬ読者たちが現れて、賞賛のコメントを大量に発表してくれます。
 その見知らぬ読者たちは、数十年の間、サイレントマジョリティとして、ずっと見守ってくれていたのです。
 【意訳、終わり
 この話のタイトルにある「スパモンのヌードル網恢恢」とは、サイレントマジョリティの読者たちを指したものである。
 真の罵倒芸を地道に探究している論者は、今は不遇でも、いつの日にか世間に広く評価される運命である。
 炎上芸で有名になった論者は、しょせんは虚名にすぎず、やがて飽きられて世間から見放される運命である。

 サイレントマジョリティの読者たちは、ネット上の片隅にひっそりと公開されたdisであっても、絶対に見逃さないサーチ能力を持っている。
 このことを、老子は数千年前に知っていたのである。