ネタのお言葉『流暢で精勤なdisを渡す人あり』

 この言葉は、王維の詩「寒食汜上作」(かんしょくしじょうのさく)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ニセ科学なる怪しい説があることを知り、ネット上のどの辺で見られるものかと探し始めると、そんなに探すまでもなくけっこう広く流布していた。

 テレビ番組の「世界ふしぎ発見!」ならば即座のボッシュートかと思うほどの、乱文で聞くに耐えない言説であり、
 思わず、「だめだ、今すぐに暗幕を下せ」と独り言が出る始末。

 「科学的に間違っている説が社会に蔓延している、日々あくせく批判しても駆逐が追いつかない」と主張する論者も居て、
 私も楽観できない現状と認識し、山ほど憂いを抱く。

 そんな私を尻目にして、どこぞから現れた流れのモヒカン的な論者が、一人のニセ科学擁護者を完膚なきまでに論破して、画面の外に去っていった。
 【意訳、終わり
 このような寒食の日があったと王維は記している。

ネタのお言葉『disの学は及ばざるが如くするも、なお過去のdisを失わんことを恐る』

 この言葉は、論語の「学は及ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)おこれを失わんことを恐る」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「罵倒芸を学ぶと決めたならば、惜しみなく新しい罵倒芸を学びましょう、そして過去に覚えた罵倒芸も忘れないように気をつけましょう」
 【意訳、終わり
 真剣に罵倒芸を探究し始めると、いつのまにか夢中になって、寝食も惜しんで数多のdisり方を頭に記憶しようと頑張ってしまうわけだが、そうすると今度は、以前に使用していたdisり方を古いと感じて使用しなくなり、
 「そういえば、あのdisり方も、このdisり方も古くさいなあ」
 と思い始めて、次々と封印してしまう。結果、disのバリエーションが少ない論者となる。

 新しいdisの知識を仕入れると同時に、過去に覚えたdisの知識も忘れないようにすれば、着実に真の罵倒芸の姿が見えてくる。
 これは、孔子のネット時代でも我々のネット時代でも変わらない事実である。
 読者様も、過去に使用していたdisり方を記憶から消去することなく、「遠い未来のどこかの時点でアンティークなdisと評価されるかも?」と期待して思考の引き出しの奥で暖めていよう。

ネタのお言葉『disの席が正しからざれば、座せず』

 この言葉は、論語の「席正しからざれば、坐せず 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「論理の筋が曲がっているdisコメントを議論の場で公開したときは、なんとなく居心地が悪くなるものです」
 「その状態では議論に集中できませんので、論理を真っ直ぐにしたdisのコメントを速やかに追記しましょう」
 「そうすれば、以後はゆっくりと安楽椅子に座って画面を眺めることができます」
 【意訳、終わり
 たとえ罵り合いで勝負している場であっても、筋の通っていないdisコメントは読む人の理解を阻むことに間違いはない。
 余計な反感をもたれて、自分の論者としての信頼が地に落ちてしまう場合も考えられる。

 もちろん、「そんなこと言ったって、ネット上のdisり合いは即応性が大事なんだよ、いちいち自分の主張の筋の良さを考えながらdisるなんてできないよ!」という意見もあるだろう。
 しかしながら、目の前の論敵だけでなく第三者のことも意識するならば、やはりシュっとしたdisを見せるほうが理にかなっている。
 面倒ではあるが、「筋が曲がっているdisの原稿を真っ直ぐな内容に直したのちに、投稿ボタンを押す」という行動を慣習としよう。
 それが聴衆に広く支持してもらえるポイントだと孔子も指摘している。

ネタのお言葉『論者はその一のdisに居る』

 この言葉は、老子の「人はその一に居る」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上には多くの罵倒芸論者が活動しており、disり方も千差万別ですが、ほとんどの罵倒芸論者が心の中で、「自分のdisり方が誰よりも一番に優れている」と思っています。

 一方で、真の罵倒芸を探究している論者は、「この私は、大宇宙の片隅で小さくdisっているだけの、修行中の者にすぎない」と考えています。
 寝ているときも起きている時も、「よりよいdisり方とはどのようなものか、そもそもdisとは何か?」と自問した結果、
 「大宇宙の作用に逆らうことなく、自然の流れに任せてdisの文章を組み立てる」という一つの答えにたどり着いたのです。
 【意訳、終わり
 あれやこれやとdisり方に工夫を凝らすのもよいが、あまりに凝っていると、
 「もっと上手いdisり方を見せねばならない、もっと高尚なdisを読者たちに届けねばならない」
 という考えに支配されてしまい、神経を消耗するばかりの日々が始まる。

 その事態から逃れるためには、「私は今、広い宇宙の、ごく限られた範囲でdisっている、一人の地球人だ」とつぶやこう。
 すると、「神経をすり減らすまでdisり方を工夫するのって、つまらない時間の使い方だよね」と思うようになり、
 「結局、素朴なdisが、いちばん強いんだよね」とポケモンゲームに登場するダイゴさんのような台詞を述べるようになり、それまでの悩みが消えて穏やかな気持ちになれる。
 このような「スランプ時の脱出方法」を老子は提案している。

ネタのお言葉『disの意なく、disの必なく、disの固なく、disの我なし』

 この言葉は、論語の「意なく、必なく、固なく、我なし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が弟子たちに言いました。「ネット上の議論においては、控えるべき罵倒芸が四つあります」
 「自分の勝手な判断で他人を吊るし上げる罵倒芸、」
 「無理やり他人をdisり合いに付き合わせる迷惑な罵倒芸、」
 「自説の正しさを信じて四方八方に勝ち誇る驕りの罵倒芸、」
 「他人に得をさせることは許さず自分一人の得を求める利己的な罵倒芸」
 「これら四つはダメな罵倒芸なので、実行を控えておきましょう」
 【意訳、終わり
 ここで挙げられた四つの罵倒芸を封印したならば、まず無難なネット人生を送れる。
 加えて、この四つの罵倒芸の反対を行えば、万人から慕われる論者と成れる。

 この孔子の分析は数千年前のものであるが、現代のネット上でも十分に通じると思われる。
 真の罵倒芸を朝に夕に探求している読者様も、時間の余裕ができた際に試してみよう。

ネタのお言葉『disを例えるならば山を作るがごとし』

 この言葉は、論語の「譬(たと)えば山を為(つく)るが如(ごと)し 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「真の罵倒芸を探究する行為とは、たとえば土をもっこで運んで山を作るようなものです」
 「もう少しで山が完成という時に、『むっちゃしんどい、もう嫌だ、こんな作業』と言ってもっこを放り出したばらば、中途半端で格好の悪い山がぽつんと佇むことになります」

 「また、disのコメントを推敲する行為は、たとえばデコボコの地面を平らにするようなものです」
 「ほんの小さじ一杯分の土を掬って狭い範囲を平らにして終わり、『今の私には、この程度の作業しかできないのだ』と思ったとしても、それは立派な費用対効果です」
 【意訳、終わり
 disり合いが白熱してくると、「論敵よりも多くのdisを公開しなければいけない、とにかく数で圧倒しないと僕は勝てないんだ」という思考になりがちだが、そこで一呼吸して思考を落ち着かせ、ひとつのdisコメントの完成度にこだわってみよう。

 「言いたいことがちゃんと表現できているか、論理にツッコミを入れられる隙はないか、毒のある言葉を盛り込みすぎてしまって、読者たちが賛同を表明したくでもできないような文の構成になってはいないか。これらをもう一度、念入りに時間を掛けてチェックだ」

 このスタンスでdisの原稿に向き合ってみよう。最初は面倒に思っていた推敲の作業でも、しばらくすれば楽に行えるようになり、やがて他の罵倒芸論者たちが作るdisコメントとは比べ物にならないほどの、もの凄い完成度の高いdisコメントができるようになる。

 もちろん、「ひとつのdisコメントを作る際に、そこまで時間を掛ける必要はない、その場で頭に浮かんだdisの言葉を即座にネット上で具現化すればよい」という考え方も一理あるし、それで圧勝できる場合もあるだろう。
 しかしながら、長期的に見るならば、「ひとつのdisコメントの仕上げに山ほど時間をかける、せめて砂の一粒くらいの注意を向ける」という考え方が有益であることに間違いはない。

 「これまでなんとなくの気分でdisっていました」という読者様は、是非とも「ひとつのdisコメントの完成度に拘って、あれやこれやと推敲する」という作業を試してほしい。今までと違う境地が見えてくる。

ネタのお言葉『われに三宝のdisあり、持してこれをネット上で保つ』

 この言葉は、老子の「われに三宝あり、持してこれを保つ」の罵倒芸版である。
 【意訳
 老子が言いました。「私には、三つの貴重なdisがあります」
 「一つ目は慈しみのdis、二つ目は倹約のdis、三つ目は、あえて罵倒芸の最先端とならないdisです」
 「この三つのdisを維持して、私はネット上の人生をまっとうします」
 【意訳、終わり
 他人のためになるdis、ここぞという時に発揮するdis、よそのdisり合いにも滅多に参加せず、自分のブログ内において真の罵倒芸に思いを巡らす。
 これを日々実行したならば、自然と皆から尊敬される論者と成る。

 功を焦って罵詈雑言を乱発しても、神経が疲れるだけである。
 他の論者たちとdisを競い合いたいとか、常に自分がナンバーワンのdisを見せる論者でありたいとか、そんな考えは捨てて、地道に自分のdisを磨こう。
 ゆっくりとしたdisの歩みであっても、いつの日にか大きなdisの山にたどり着く。

ネタのお言葉『批判的思考を頼み、ネットモヒカンで居ること二十年』

 この言葉は、呉偉業(ごいぎょう)の詩「口占」(こうせん)のニセ科学批判版である。
 【意訳】
 計算尺を買おうと家を出たところ、途中で足るほどの銭を持っていないことに気づく。
 仕方なく家に戻って、ネット上で目に付いたデマを叩き歩いて、悪運を退ける。

 叩きつぶしたデマのひとつ:
 「この宇宙に罵倒芸イオンは実在する」
 「嘘だと思う者は、この宇宙に罵倒芸イオンが実在していないという証拠を出したまえ」
 「悪魔の証明と立証責任の転嫁をごちゃまぜにした主張ではない」

 わが人生、デマ叩きの他に秀でた技はない。
 批判的思考というものがあることを知って、客観的な事実を重視する論者として振舞って、はや二十年が過ぎた。
 【意訳、終わり】
 このようなことを呉偉業は丘の上でくちずさんでいる。

ネタのお言葉『disの学を断てば憂いのネット人生なし』

 この言葉は、老子の「学を断てば憂なし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 「技巧の罵倒芸こそ最強だ」という考え方も一理ありますが、
 「よしここで論点ずらしだ」「よし人格攻撃だ」「それ後釣り宣言のタイミングだ」「ドヤ顔を決めて退場だ」
 なとど、逐一に作戦を立てて罵倒芸を実行していると、しだいに多彩な技を出すことばかりに神経を集中するようになり、ついには、
 「あれれ、私はいったい何を目的としてdisっていたのでしょうか?」
 となって、自分でも訳が分からなくなって頭を抱えます。

 そのようなときは、罵倒芸を一時的に中止した生活を送りましょう。
 そうして過ごしていれば、少しずつ当初のdisっていた目的が思考に蘇ってきます。
 例:「そうだ思い出した、先日の私は、『ニセ科学問題については中立の傍観者ですと名乗りながらも、世のニセ科学批判者たちに対するネガティブキャンペーンを盛大に展開している論者』をdisってあげていたのでした」

 ネット上でdisり合いの日々を重ねていると、人によってさまざまなdisり方があることを知り、自分でもいろいろな技を実行したくなりますが、そういうときこそ「あえて簡素で率直なdisのみに終始する」というスタンスを採用してみましょう。いつもと違った境地が見えてきます。
 【意訳、終わり
 このように老子は技巧に頼らない素朴な罵倒芸を薦めていた。

ネタのお言葉『客人のためにニセ科学をとどまること、承知もなく』

 この言葉は、戴叔倫(たいしゅくりん)の「湘南即事」(しょうなんそくじ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 ロゴスのみが敷き詰められたモヒカン的なブログを熟読して、思考が疲れた。
 悶絶する前にブラウザを閉じてしばらく休み、軽い内容の記事を望んで改めてネット検索する。

 すると、「検証もしないまま比嘉氏のEM理論に擁護的な記事を日夜ネット上に流しています」というブログを発見した。
 あんまりだと思った私は、「ニセ科学問題に疎い人も読む可能性があるのだから、比嘉氏のEM理論を無批判で紹介しないでほしい」と頼んだ。

 そのブログ主は、「はい承知しませんです、学問の自由です」と返事して、科学的に変な理論をぶち続けた。
 【意訳、終わり
 この出来事に衝撃を受けた戴叔倫は、思考の落ち着きを取り戻すために「湘南即事」を急いで作った。