ネタのお言葉『よく明瞭をもってログを治めずんば、disをいかにせん』

 この言葉は、論語の「能(よ)く礼譲を以(もっ)て国を為(おさ)めずんば、礼を如何(いかに)せん」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。
 「頭にすっと入るようなdisコメントを皆が投稿すれば、ログの流れが素直になって、第三者にも読みやすくなります」

 「独りよがりなdisコメントを皆が投稿すれば、ログの流れがぎこちないものとなって、第三者にも読みにくくなります」

 「そのような無残なログを作り上げてしまっては、せっかくのdisコメント作りに要した時間と労力が無駄になってしまいます」
 【意訳、終わり
 自慢のdisりも、読む人に理解してもらえなければ意味がない。
 「どのようにすれば、万人に伝わるdisができるか?」
 という自問を常に行い、そのうえでdis作りに励む。
 そうして仕上げたdisならば、ほぼすべての読者に伝わるだろう。

 もちろん、
 「脳内に浮かんだdisをダイレクトに文章化すればよいのだ、そのほうが自分にとって楽な作業なのだ」
 という考え方もあるが、その場合は困惑のリアクションを見せる読者ばかりとなるだろう。

 例:『さっきから色々とdisの言葉を並べているけれど、結局あなたは何を主張したいの?』

 主張の中身が理解できなければ、賛否を表すことができない。
 いつまで経っても支持者が増えない。
 ゆえに、「明瞭で頭にすっと入るdis」の効果は高いといえる。
 このことを、孔子は数千年前に指摘していたのである。

ネタのお言葉『disの師匠に事(つか)うるに數(しばしば)すれば斯(ここ)に破門され、disの友に數すれば斯にブロックされる』

 この言葉は、論語の「君に事(つか)うるに數(しばしば)すれば斯(ここ)に辱(はずか)しめられ、朋友(ほうゆう)に數すれば斯に疎(うと)んぜらる」の罵倒芸版である。
 【意訳
 子游(しゆう)が言いました。「罵倒芸を教えてくれている師匠的なブロガーに向かって、」
 『そのdis記事はどうなんですか、前フリが濃密なわりに本論がスカスカのdis記事ではありませんか、もっと内容のあるdis記事を書いてくれませんか』
 「という感じのコメントを何度も述べるのはやめましょう」

 「というのも、『うんうん、その意気やよし』と最初は師匠も喜んでくれますが、しだいに不機嫌になって、」
 『やかましいんじゃ、こわっぱ! わしのdisブログに不満があるんじゃったら、よそのdisブログに行けばいいんじゃ!』
 「と怒り出して、アクセス禁止の処分が下されてしまうからです」

 「disの友人に対しても同様に、」
 『君のdisツイートは思いやりが足りないよ、もっと相手の心情に寄り添ったdisツイートを見せるべきだよ』
 「という感じのコメントを何度も行っていると、」
 『あなたこそ思いやりのあるdisツイートを述べてくださいよ、私の心情に寄り添ったdisツイートを見せてくださいよ、あなた自分でも出来ていないことを私に要求しないでくださいよ』
 「と返されて、ブロックされてしまいます」
 【意訳、終わり
 「あの人のdisり方には危うい部分がある、あのままだと読者からの信頼がゼロになってしまう、いまのうちに私から忠告しておこう」と思うのはかまわないが、何度も忠告していると、「くどい人間だ、もう話したくない」と嫌われてしまう。

 それでは元も子もないので、「これこれこの理由により、貴公のdisり方はダメである、ここに代替案を示しておく」という感じで、要点をコンパクトにまとめた諫言を呈して終わりとしよう。
 それがネット上における無難な付き合い方だと子游は提言している。

ネタのお言葉『disを知りて、disを知らずとするは、上』

 この言葉は、老子の「知りて知らずとするは、上」の罵倒芸版である。
 【意訳
 disの知識を豊富に蓄えているベテランの罵倒芸論者は、ネット上のdisり合いの場においては、「右も左も分からないので教えてください」という態度を見せます。
 それを見た他の罵倒芸論者は、「かなりできる御方のようだ、軽い扱いは禁物だ」と思います。

 disの知識に乏しい新人の罵倒芸論者は、自信の無さの裏返しとして、自分を大きく見せようとして頑張って、思いつくかぎりの罵詈雑言を片っ端から述べます。
 それを見た他の罵倒芸論者は、「空回りしているな」と思います。

 ベテランの罵倒芸論者は、「この私は、宇宙にある数多のdisの、ほんの一部しか知らない」と悟っています。
 新しいdisの言葉を知れば知るほど、disの世界の奥深さに驚嘆し、「自分はまだ入り口に立っているにすぎない」と客観できます。

 その反対に、「僕が一番、disを上手く、操れるんだ……」とガンダムのアムロ風につぶやく罵倒芸の論者は、まだまだ自分自身を知りきれていないということです。
 【意訳、終わり
 このほかにも老子は、「あえて勇の毒吐きを実行すれば、すなわち皆の雰囲気が滅する、あえて毒吐きをせざるに勇なれば、すなわち皆の雰囲気が活きる」と言っている。
 「私が披露するdisは良いdisだ、諸君が披露するdisはダメなdisだ」という考えでネット上を歩くと、行く先々で摩擦が発生して、論敵も自分も疲れる。
 「私のdisはたいしたことありません、どうぞ存分に吟味してくだい」という態度を見せれば、論敵たちは感心して対等に扱ってくれて、和やかなdisり合いが実現する。
 このような「活きた罵倒芸」を目指すべきと老子は言っている。

ネタのお言葉『繁苔(はんたい)、ブログ跡を覆う』

 この言葉は、儲光羲(ちょこうぎ)の『関山月』(かんざんげつ)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 一つのニセ科学擁護ブログが、連綿と炎上していた。
 ブログ主が逆切れして運営を放棄したあとは、少しずつ静かになっていった。

 いまではブログ跡に苔がびっしりと生えており、過去記事は一つも見えない。

 あれほど一丸となって批判していた人々は、どこへ行ったのだろうか。

 ニセ科学と違う分野で炎上しているログ、たとえば、政治経済について主観を根拠にした説をぶって得意顔を決めている論者のログに移ったのだろうか。

 その論者も逆切れして、自らのアカウントを消したりしているのだろうか。

 あるいは、 
 「ふう~、やれやれ、哀れな一般市民たちですよね」
 「私の主観データに基づく斬新な説を、理解できないとはね!」
 と批判者たちを見下して、更なる反感をもらっているのだろうか。

 そんなことを徹夜で考えながらうつらうつら画面を見ていると、苔に覆われたブログ跡から突然、
 「まだ負けていない!」
 「僕自身が負けたと思うまでは、まだ議論に負けていないんだ!」
 「超人メタルダーの真似じゃないぞ!」
 という謎の声が聞こえてきた。
 【意訳、おわり
 そのような怪異があったと儲光羲は関山のふもとで記している。

ネタのお言葉『冷水のブログになっても愚痴らず、炎上のブログになっても焦らず』

 この言葉は、荘子の「水に入れども濡れず、火に入れども熱せず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 真の罵倒芸を探究する論者は、自分のブログが長いあいだ過疎であっても、なに一つ不満を述べません。
 多くの読者から批判のコメントが寄せられたときも、あざ笑ったり、逆切れしたり、他人に責任を転嫁したりしません。

 世間に広く知られる有名ブロガーとなっても、舞い上がったり、調子に乗ったり、傲慢な物言いをしたりしません。
 世間から忘れ去られて再び過疎ブロガーに戻っても、絶望して引退を表明したりしません。

 いかなるときもフラットな態度を見せる、それが真の罵倒芸を探究する者の姿です。
 【意訳、終わり
 disブログを運営していると、読者の数が大幅に増えたりゼロになったり、賞賛の声をもらったり非難を浴びたりする。
 そんな日々にいちいち喜んだり悲しんだりしていると、疲れがものすごく溜まって倒れてしまう。
 どのような状況に置かれようとも、冷静な気持ちで画面を眺める自分で居よう。
 それが無意識にできるようになったならば、まず罵倒芸を長くネット上で披露できるだろう。
 そのように荘子は助言している。

ネタのお言葉『穏健派の罵倒芸論者は穏当なdisに安んじ、知性派の罵倒芸論者は穏当なdisを利とす』

 この言葉は、論語の「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「自分が一人勝ちさえすれば良いと考える罵倒芸の論者は、支持者が少ない状況になると愚痴ばかりを述べはじめます」
 「多くの批判を一身に受ける状況になっても、逆切れして騒動を大きくするばかりで、とてものんびりしたネット人生を送ることができません」

 「穏健なdisのみを公開すると決めている罵倒芸の論者は、心の落ち着いたネット人生を長く送ることができます」
 「知恵のある罵倒芸の論者は、むやみやたらに毒吐きすることの不利を理解しており、遠まわしでふんわりとしたdisに留めておきます」
 【意訳、終わり
 トゲトゲしたdisを公開してばかりでは読者が飽きて去ってしまう。適度にトゲを抜いたdisならば、読者が安心して支持を表明できる。
 それを見た他の罵倒芸論者たちも、ウォームハートなdisを述べ始める。結果、ほのぼのとしたdisログが作られる。
 この流れを目指しなさいと孔子はアドバイスしている。

ネタのお言葉『玄人の罵倒芸論者は省を思い、素人の罵倒芸論者は量を思う。玄人の罵倒芸論者は律を思い、素人の罵倒芸論者は烈を思う』

 この言葉は、論語の「君子徳を懐(おも)えば、小人は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵(けい)を懐う」の罵倒芸版である。
 【意訳
 ネット上で数々のdisり合いを経験したベテランの罵倒芸論者は、「いかに短縮したdisのコメントを作るか」という部分に神経を集中します。
 デビューしたばかりで経験が浅い罵倒芸の論者は、「いかに多くの悪罵で画面を占めるか」という部分にこだわります。
 
 ベテランの罵倒芸論者は、邪念の抑制された厳かなdisり合いの雰囲気を作ることに気を配ります。
 新人の罵倒芸論者は、自分の実力不足をごまかそうとして、荒れに荒れて混沌としたdisり合いの雰囲気を作ることに一生懸命となります。
 【意訳、終わり
 論者の芸風は人それぞれであるが、
 「脳内に浮かんだ数多の罵詈雑言を次々と文章化してネット上に投稿する」
 という芸風は、尋常でない疲れが溜まって体によくない。
 脳の働きも鈍り、それまでの雑言がマシだったと思うほどの酷い論理の文を作ってしまう。

 酷い論理の例:「反論者たちは疲れて議論を中止して退場したよ? よって僕の主張に誤りは一つも含まれていなかったという理屈になるよ? 僕の一人勝ちだね!」

 この体たらく、いままで支持してくれていた読者たちも流石にあきれて離れてしまう。
 その後は閑古鳥の鳴き声がログに響く。「カッコー、カッコー」
 キジバトの鳴き声が聞こえてくるほどの過疎ログになる。「ホーホ、ホッホホー。ホーホ、ホッホホー」
 アオバトの姿もはっきり見えるほどにスカスカなログの空間となる。「ホー、ホワオー、ホワオー、ホワー」

 その事態を避けるためにも、「簡素なdisで早めに議論を終わらせて、あまった時間で他の作業に従事する」という芸風を選択するのが賢明といえる。

ネタのお言葉『小ログと小支持を恥じる者は、いまだ共に真のdisを語るに足らず』

 この言葉は、論語の「悪衣悪食(あくいあくしょく)を恥ずる者は、未(いま)だ与(とも)に議(はか)るに足らず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「どこまでも真の罵倒芸を探究しますと宣言しておきながらも、自分のブログのアクセス数の少なさを嘆いたり、読者たちが一向に賛同を表明してくれないと愚痴ったりするブロガーは、真の罵倒芸を一緒に語れるような間柄にはとてもなれません」
 【意訳、終わり
 真の罵倒芸を会得したいと思うのならば、自分の現状に不満があっても沈黙を保ってdisの研鑽に日々努める、それこそが名罵倒芸ブロガーへの近道になると孔子は言っている。

ネタのお言葉『孤高のニセ科学批判ブログを閲覧す、はじめあっぱれ、のちdisの雨』

 この言葉は、蘇軾(そしょく)の「飲湖上初晴後雨二首 其二」(こじょうにいんす、はじめはれ、のちあめ、にしゅそのに)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 あるネット上の片隅に、推敲のよく洗練されたニセ科学批判ブログを発見した私は、明瞭な自己主張の数々に晴れ晴れな読後感を覚えた。

 誤謬が散々に表示されている科学素人のサイトに啓蒙を試みている記事は、相手の反発を生んでdisの応酬となっているが、これも趣があってよい。

 正論を採ってニセ科学の抑止に日々を捧げんとするブログ主の気合を鑑みれば、多少の短気も瑣末なことと請合うがよろしい。
 【意訳
 そのようなブログを西湖の上で晴れの日も雨の日も読んでいたと蘇軾は術懐している。
 なお、のちに同じブログを閲覧した松尾芭蕉は、「今朝方も、ムラビトとモヒカン、disの花」という句を作っている。

ネタのお言葉『われ、いまだ真のdisを好む者、不真のdisをにくむ者を見ず』

 この言葉は、論語の「我未(いま)だ仁を好む者、不仁を悪(に)くむ者を見ず 」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が言いました。「これまで私は、真のdisを探究しながら一方でダメなdisを憎むという論者の姿を、ネット上でひとりも見たことがありません」
 「真のdisを探究したいという志、それを持つだけで罵倒芸の論者として十分といえます、たとえば」
 『ダメなdisを公開するだなんて……。ダメなdisを公開する、僕だなんて!!』
 「と思う論者は、良いdisの仕上げに神経を集中します」
 例:『今日も朝から晩まで、渾身のdis作りにがんばるぞい!』

 「そのような論者は、他所の議論に参加して相手からダメなdisをもらった際に、」
 『これ以上のやり取りは、私の時間を無駄に消費する行為でしかない、というのが率直なところだ』
 「と言って、早々に見切りをつけて去ります」

 「もしも、このような行動をネット上に居るすべての論者が実践すれば、結論がなくて長いだけのログは消え去って、早期に相互理解に達したログばかりを画面で見ることになるでしょう」
 「まるで夢のような話だと思うかもしれませんが、私自身は可能性がゼロでないと信じていますので、これからもネット上にある数多のdisり合いのログを訪れて説教する日々を送ります」
 【意訳、終わり
 孔子が放浪の旅をしていた頃のネット上においては、真のdisに興味を持つ論者が居なくなっており、
 「雑なdisだろうがなんだろうが! 議論で一人勝ちできればよかろうなのだ!」
 という考え方の論者たちが跋扈しており、読者たちも大いに持て囃しており、その風潮がなかなか変わらないことを孔子は嘆いたのである。