ネタのお言葉『ニセ科学の検分中、disの小雨に会う』

 この言葉は、陸游(りくゆう)の「剣門道中遇微雨」(けんもんどうちゅうびうにあう)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 今朝もまた、ネット上を歩くと科学的に怪しい風説が耳をかすめ、詐欺師の仕掛けた罠があちらこちらに見えている。

 若き日にニセ科学問題を憂慮して批判活動を数十年ほど続けたが、支持の声は少なく、反発の声は多くもらい、ときには中立を名乗る傍観者が現れて、
 「科学的に変な主張を信じるのも、個人の自由である」
 「ニセ科学信奉者と対話しても、相互理解に達する可能性は、ほぼゼロである」
 「自分が固く信じているニセ科学を、急には捨てられないからである」
 「ゆえに、不毛なニセ科学批判活動などやめて放置に徹するべきという理屈になる」
 「これより貴公は永遠の沈黙を保っていたまえ」
 と言ってきて、私は気落ちのリアクションばかり。

 もはや、引退を考えるときなのだろうか。
 ネットの果てにある竹林に小さな庵をセルフビルドして移り住み、朝に夕に世の不明を嘆いて過ごす日々が楽だろうか。
 そんな想像をしていると、他所のブログで新たなニセ科学的記事が公開されていたのを発見したので、自ブログで吟味を開始する。
 さっそくdisのコメントがぽつぽつ届き始めたが、もはやBGMと割り切って聞き流した。
 【意訳、終わり
 そのような日々があったと陸游は剣門の前で述懐している。

ネタのお言葉『見境いある罵倒芸はネットの果てから放つも一本にすぎず』

 この言葉は、荘子の「みそさざいは森林に巣くうも一枝にすぎず」の罵倒芸版である。
 【解説
 ネット上の数多の議論に参加してdisってきたベテランの罵倒芸論者は、「もう十分だ、disの言葉を多発する行為は」という思いを抱きます。

 その思いを大切にし、どこぞで新たな議論が発生しても、「私とは直接の関係がない論争だ、簡素に作ったdisコメントを一つ送るに留めよう」という態度に徹します。

 しかし、そうでもない罵倒芸の論者は、「もう一つ貶しを、もう一つ毒吐きを」と重ねてdisコメントを放ちます。

 およそ、実績不足を気にしている罵倒芸の論者は、思考に浮かんだdisの言葉を片っ端から具現化し、圧倒的な量で議論の勝ちを目指すものです。
 あのアニメ『起動戦士ガンダム』に登場するドズル・ザビさんも、
 「ネット上のdisり合いは数だよ、兄貴!
 と言っているように、この作戦も一理ありますが、disの数にこだわり過ぎると思考が大いに疲弊してコメント作成がストップします。

 ストップしない場合でも思考は疲弊したままですから、推敲が今ひとつとなり、論理に穴があるdisばかりを放つことになり、それを見た論敵たちは、
 「ヒャッハハ! 見ろ、あの必死の不毛な連続投稿をよ!」『ゲラゲラ
 という、漫画の『北斗の拳』に出ているモヒカンさんたちと同じリアクションを採用します。

 このことを、ベテランの罵倒芸論者は自分の過去の経験から知っており、
 「ここぞという時に、一文字のdisを公開する。それが、費用対効果の罵倒芸である
 と心得ているために、活発な議論の場に参加してもほぼ無口で通します。

 というわけで、「今の私、なんとなく非効率な罵倒芸になっているような? 自分の貴重なリソースを、無駄に消費しているかも?」
 と思った際は、「見境いある罵倒芸はネットの果てから放つも一本にすぎず」と呟いて簡素なdisを仕上げましょう。
 【解説、終わり
 そのように荘子は言っていた。

ネタのお言葉『disの唇閉じて歯がかゆし』

 この言葉は、あの「唇亡びて歯寒し」の罵倒芸版である。
 【なりたち
 苛烈な罵倒芸ブロガーであるAさんが、副管理人のBさんと、普通の罵倒芸ブロガーであるCさんとDさんの三人を引き連れて、穏健派の罵倒芸ブロガーであるEさんをdisり倒そうと準備していました。

 その脇でCさんとDさんは、密かに不安を募らせていました。
 「Eさんがdisり倒されたあとは、我々が標的となるのではないか?」
 『たしかに、日頃から誰彼かまわず噛み付いているAさんならば、あり得る話だな』
 「そうなる前に、我々でAさんをdisり倒しておくべきではないか?」
 『うむ、disられる前にdisれということだな』

 不穏な雰囲気に気づいたBさんは、Aさんに忠告しました。
 「CさんとDさんが疑心暗鬼になっています」
 「これを払拭するために、Eさんをdisる行為はすべてCさんとDさんに任せると宣言してください」
 「そうすれば、CさんとDさんはAさんの器の大きさに感激して固い支持を約束してくれます」

 しかし、Aさんは断りました。
 「disの言葉を我慢して述べない罵倒芸の論者は、歯がむっちゃかゆくなって、三日三晩まともに寝られなくなると私は聞いている」
 「ゆえに、私のdisる権利をCさんとDさんにすべて譲れというBさんの提案は、間違っているという理屈になる」

 それを聞いたBさんは、「事は決した。このままでは私も巻き添えになる」と判断して、副管理人の地位を返上してネットの果てにある竹林に身を隠しました。

 その翌日、CさんとDさんはAさんのブログに乗り込んでdisのコメントを投稿しました。
 不意を突かれたAさんは有効な反論ができず、完全論破に追い込まれました。
 それを見た愛読者たちは失望して去り、Aさん自身も、「苛烈な罵倒芸で名を馳せてきた私だ、いまさら過疎ブロガーの身など耐えられない」と言ってネット上から消えました。
 【なりたち、終わり
 なお、一部の研究者は、「唇亡びて歯寒し」という言葉も元を辿れば「disの唇閉じて歯がかゆし」に行き着くと考えている。長い時が経つうちに罵倒芸のくだりが省略されてしまったのだという。

ネタのお言葉『衆人環視のログでdisの留まるを承知せず』

 この言葉は、あの戴叔倫(たいしゅくりん)の漢詩『湘南即事』(しょうなんそくじ)の罵倒芸版である。
 【意訳
 論戦と難詰に花を咲かせる人がブログを開設したとの噂を聞いた私は、さぞかし風流からほど遠いブログであろうと思いつつ訪れる。
 さっそく問答となり、いつの間にか私は軽視される立場となり、ついにブログ主は「ネットマナーの説教など望まん」とそっぽを向いた。
 私も話す気は減少したが、ブログ主が他の人とどのように対話するか興味があったので、副管理人を申し出たところ、「私のdisを邪魔さえしなければ」と条件付きで受理された。

 ところが数日後、ブログ主は、「ネット上には僻みばかり述べる人間しか居ない、私だけが高潔だ」と嘆いてブログを去った。
 残された読者たちは一斉に副管理人である私を見つめたので、次のように宣言した。
 「このブログは論戦と難詰を目的として作られたわけですが、肝心の管理人が消えてしまいました」
 「暫定措置として、新しい管理人が決まるまでは相互理解を重視した運営とします」
 読者たちは、「いままでのトゲトゲした雰囲気を無くすというのか」と驚きながらも愛読を約束してくれた。
 その後、私は新管理人が定まる日までウォームハートなブログを維持した。
 【意訳、おわり
 そのような出来事があったと戴叔倫は報告している。

ネタのお言葉『ムラビト的論者が唱える説に主観の根拠、モヒカン的論者が掲げる批判にバイクとバギー』

 これは、あのことわざ「唇歯輔車」(しんしほしゃ)のニセ科学批判批判版である。
 【なりたち
 苛烈なニセ科学批判ブロガーのAさんが、悪しき相対主義ブロガーのBさんに問いました。
 「あなたのブログのコメント欄にニセ科学的な主張をしているCさんが常駐しているが、今から私が赴いてCさんに対する批判のコメントを述べてもよいか?」

 Bさんが承知しようとすると、副管理人のDさんが現れて諫言しました。
 「あのAさんはモヒカン的な思考の持ち主です、Bさんはムラビト的な思考の持ち主です」
 「古来、自分の個人的な経験を一般化して語ってドヤ顔で締めくくる論者は、モヒカン的な論者から必ず狩られてしまうものと私は聞いています」

 「つまり、CさんがAさんによって集中的に批判されて疲弊して倒れ込んだあとは、Bさんがターゲットとなるわけです」
 「それはBさんの望むところではないでしょうから、Aさんの申し出は断るべきです」

 しかしBさんは、「大丈夫です、この私は常日頃から『ニセ科学とまともな科学は相対的に同一です』と主張しているにすぎず、ニセ科学そのものを信じているわけでもありませんから」と言って、Aさんを自ブログのコメント欄に迎え入れました。

 それを見たDさんは、「寄る年波に勝てず、副管理人を引退します」と言ってBさんのブログを去りました。
 去り際にDさんは予言しました。「Bさんのブログは、数日内にネット上から見えない存在と化すであろう」

 その後、AさんはCさんのニセ科学的な説をこれでもかと修正し、次にBさんの悪しき相対主義的な主張をそこまで掲げるかというほど吊るし上げてブログの閉鎖に追い込みました。
 【なりたち、終わり
 この話の教訓は、苛烈なニセ科学批判者がターゲットにしている説は、ニセ科学を正面から擁護している説だけでなく、からめ手で擁護している説も視野に入っているために、中立を名乗りながらニセ科学批判批判を行っている論者も用心しておくに越したことはないというものである。
 なりたちは古いことわざであるが、現代のネット社会にも十分に通用することわざなので覚えておきたい。

ネタのお言葉『われ、顔回にdisを問う。終日微笑でごまかす顔回。落胆して別れるも、これで仕舞ではないとのちに知る』

 この言葉は、あの論語の「吾、回と言うこと終日、違わざること愚かなるが如し。退いてそのわたくしを省みれば、またもって発するに足る。回や愚かならず」の罵倒芸版である。
 【意訳
 孔子が弟子の顔回に対して、「ネット上の議論における罵倒芸の披露」について、是非を問いました。
 顔回は、静かな笑顔を見せるだけで何も答えませんでした。
 孔子は、「さすがの顔回も、罵倒芸に関する知識は皆無であったか」とがっかりしました。

 その翌日の朝、顔回は孔子に会うと、腕を組み、体を斜に構え、リズムを取りつつ、「YO! YO! 師匠! 今から論語! 存分disるよ! メーン」と言いました。
 実は顔回は、昨日孔子と別れたあと、自室で罵倒芸に関する情報をネットで検索して集め、一晩で思考にインプットを完了していたのでした。

 それを知った孔子は、「一見して茫洋としている人間こそ、深く尖った実力を秘めているものだ、その具体例が顔回である」と高評価を与えました。
 【意訳、終わり
 このように、真心で行う努力は必ず誰かが見てくれており、必ず正当に評価してくれる。
 だから読者様も、「こんなにdisの記事を書いているにもかかわらず、いまだ私は泡沫ブロガーで過ごしている、もはや路線を変更すべき時に来ているのではなかろうか……」と悲観せず、今一度自分の罵倒芸と向き合おう。

 なお、一部の研究者は、「長い時が経つうちに罵倒芸のくだりが省略されて違う趣旨として現代に伝わった」と考えている。

ネタのお言葉『ログに響く、明瞭なカッコウの鳴き声、是非の気持ちを待たず』

 これは、あの王守仁(おうしゅじん)の漢詩『題灌山小隠』(かんざんのしょういんにだいす)の罵倒芸版である。
 【意訳
 このたびの私は、自ブログの赴きを「毒吐きの披露」から「礼儀の説教」に移した。
 かつて、近隣のブログに延焼するほど炎上していた私の拠点も、ネットマナーを説き始めてからは、ついに最後の愛読者も姿を消す。

 「まるで人里から離れた岩山の頂きで呪文を唱えているようだ」と言うなかれ。
 「いまどき窮屈な礼儀の勧めをネット上に供給しても受け取る人は皆無です」と言うなかれ。

 閑古鳥の声がよく響く自ブログの空間で、ひたすらに清流の記事の生産に励む。
 この現状を、良いとか悪いなどと自己判定する時間すらも、いまの私は惜しむのだ。
 【意訳、終わり
 そのように王守仁は灌山で記している。

ネタのお言葉『五十歩のdis人、百歩のdis人を笑う』

 これは、あの「五十歩百歩」の罵倒芸版である。
 【なりたち
 孟子が魏の国の恵王に向かって例え話を始めました。
 「ある公開討論の場で、AさんとBさんが自分達の主張の不利を悟り、完全論破に追い込まれる事態を嫌って逃げ出しました」
 「Aさんは、五十歩まで逃げたところで、後釣り宣言を実行しました」
 「Bさんは、百歩まで逃げたところで、後釣り宣言を実行しました」
 「Aさんは、Bさんの臆病さを笑いました。Bさんは、言い返しました」
 『私の方が、Aさんよりも遠い場所から公開討論の場に向かって後釣り宣言を叫んだのだから、私の方が優れている』
 
 ここまで話した孟子は、恵王に問いました。「五十歩のところで後釣り宣言したAさんと、百歩のところで後釣り宣言したBさん、さてどちらが優れている論者でありましょうか」
 恵王は答えました。「どちらもダメである。後釣り宣言して論者としての信用を落としたことに違いはない」

 孟子は頷きました。「まさにそのとおり。そして、これは罵倒芸論者のブログ運営にもいえることです」
 「他所のブログに赴いてdisり合いに明け暮れる日々よりも、自分のブログに悠然と腰をすえ、愛読者達の感心を呼ぶdis記事の作成に、全リソースを捧げる」
 「これこそが、disブログを運営する者のあるべき姿です」

 このようにして孟子は、本題であるdisブログの王道を説く前フリとして「五十歩のdis人、百歩のdis人を笑う」の例え話を用いたのでした。
 【なりたち、終わり
 なお、一部の研究者は、長い時を経て「五十歩のdis人、百歩のdis人を笑う」から「五十歩百歩」に転訛したと考えている。

ネタのお言葉『批判的なROMの全員、もし私の初成果を賞せずんば、ログを惜しまずハンドルを消さん』

 この言葉は、あの漢詩『題詩後』(しごにだいす)のニセ科学批判版である。
 【意訳
 この三年、二人のニセ科学擁護者を相手にツイッター上でやり取りしてきた。
 一人のニセ科学擁護者は、「科学の教科書なんか読みません。疫学? なんですかそれは」というばかりで、まったく話が進まず、物別れで終わった。

 もう一人のニセ科学擁護者は、2年と11ヶ月あまり対話したあと、次のように考えを変えてくれた。
 「いまだに専門的な知識は何一つ有していない私ですが、」
 「それはともかく、科学的にインチキな説がネット上をドヤ顔で闊歩している場合があるために、」
 「万が一目撃したときは、鵜呑みに信じてはいけない、」
 「ましてや、自分のウエブサイトで肯定的に紹介してはいけない、」
 「それをすれば、ネットモヒカン族から容赦ないツッコミが山ほど送られて疲弊し、」
 「支持者たちも呆れて離れ、」
 「自分の論者としての信用が大幅に低下した現実に呆然として一人佇むという結果もゼロでないことは、承知いたしました」

 ようやく私のニセ科学批判が実を結んだ。過去ログを読み直すうちに涙があふれ、画面がぼやける。

 この画面をはっきり見ているニ科学批判批判者たちが、「まあ頑張ったほうじゃないの、役立たずのニセ科学批判者にしては」という評すら与えてくれないのならば、今すぐ私のツイッターのアカウントを消して、リアルな世界でのニセ科学批判に持てるリソースをすべて注ぎ込んでしまおう。
 【意訳、おわり
 そのように賈島(かとう)は「題詩後」に記している。

ネタのお言葉『disの積むこと厚からざれば、即ち大罵倒芸を負うに力なし』

 この言葉は、荘子の「水の積むこと厚からざれば、即ち大舟を負うに力なし」の罵倒芸版である。
 【意訳
 思考に蓄えたdisの語彙が少ない論者の場合、浅い罵倒芸のみを披露します。
 思考に蓄えたdisの語彙が多い論者ならば、深い罵倒芸も実行可能となります。

 「いいや、少ない語彙のdisで十分だ、私は一本槍のdis押しで数多のdisり合いに勝ってきた」
 という御方もいらっしゃるかもしれませんが、やはり聴衆のほとんどは深みのある罵倒芸に心を惹かれるのも事実です。

 深呼吸をし、ゆったりとネットの画面に向かい、他の罵倒芸論者たちが公開しているdisのコメントを熟読し、ひとつも残さず思考にインプットする。
 その作業を日々繰り返すことにより、いままで知らなかったdisの世界がみるみると広がっていきます。

 そうして過ごしているうちに、「いままでの私の罵倒芸は、なんと小さかったことか」という心理状態となり、その日からは読者から送られる批判の言葉も悠然として受け入れる自分となっています。

 過去に成功したdisの論法に固執せず、海のようなdis、空のようなdis、宇宙のようなdis、パラレルワールドのようなdis、どこまでも広いdisを探求する心。
 そのような心を持った罵倒芸の論者は、誰よりも器の大きなdisコメントが作成可能となるでしょう。
 【意訳、終わり
 そのように荘子は言っていた。